名古屋市内で唯一の水天社が熱田区白鳥にある。 水天宮というと東京日本橋の水天宮(web)が有名ではあるけど、福岡県久留米市にある水天宮(web)が総本社だ。
1185年、壇ノ浦の戦いで平氏は源氏に敗れ滅亡する。 戦いの後、高倉平中宮(高倉天皇の皇后で安徳天皇の母)に仕えていた女官の伊勢は鷺野ヶ原(さぎのがはら)というところに逃れて移り住み、安徳天皇を祀ったが水天宮の始まりと伝わる。 水天宮が壇ノ浦の戦いがあった近くの山口の下関や北九州の門司などではなく内陸の久留米にあるのはそういう理由だ。 その後あちこち移り、慶安3年(1650年)に久留米藩2代藩主の有馬忠頼が社地と社殿を寄進して、現在の場所に落ち着くことになった。 東京の水天宮は、久留米藩9代藩主の有馬頼徳が1818年に江戸の三田にあった久留米藩の江戸上屋敷に勧請したのが始まりだ。 代々、真木氏が社家として水天宮を守り、現在も続いている。 その後、江戸の水天宮は一般開放され、何故か安産の神として信仰されるようになる。仏教の神である水天と天之水分神・国之水分神(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)が習合して「みくまり」が「みこもり(御子守)」に転じたなどとされるも定かではない。 日本橋の水天宮は戌の日には妊婦さんと付き添いの人でごった返す。お産の軽い犬にあやかろうと、この日に安産祈願に訪れる人が多いからだ。 久留米の水天宮や他の水天宮でもやはりそうなのだろうか。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「白鳥町字中島の守随家の邸内に安政四年(1857)には既に鎮座と伝わる」 江戸時代末の1857年にはすでにあったことは分かっているけどその年に創建されたものではなさそうだ。 ここでいう守随家(しゅずいけ)というのは、秤(はかり)一族の守随家のことだろう。 武田信玄の長男・義信の長子・信義を吉川守隨家へ養子に出して秤の製造専売権を与えたのが秤一族としての守隨家の始まりだ。 甲斐国は金山から金が穫れたので正確な秤が必要だった。 信玄の跡を継いだ勝頼が天目山の戦いで敗れて武田家が滅亡した後、家康は引き続き吉川守隨家に秤の許可を与え、家康が江戸に幕府を開くと守隨家は守隨秤座を創業して、江戸における秤にまつわる一切を独占することになる。 家康は三河などでも守隨秤を採用し、名古屋城が建つと尾張にも進出した。 その後、西日本は京都の神家、東日本を江戸の守隨家がそれぞれ支配することになる。
その名古屋の守隨家が邸宅内に水天宮を祀ったというのだけど、それは本当だろうか。 祭神を安徳天皇としている。 久留米や日本橋の水天宮の祭神は、天御中主神(アメノミナカヌシ)と、安徳天皇とともに入水した高倉平中宮、二位の尼を一緒に祀っている。 秤一族の守隨家がどうして宅内で水天宮を祀ったのか。秤と安徳天皇と安産は結びつかないように思える。 元を辿れば吉川守隨家は武田家の有力家臣で、信玄の孫の信義が養子になったことで地位を築いた一族だ。武田家は清和源氏の流れをくむ河内源氏の一族だから、源氏色が強い。なのに平家側の安徳天皇を邸宅内で祀ったことに違和感を抱く。 安徳天皇は高倉天皇と平清盛の娘の徳子との間に生まれた天皇で、高倉天皇の母は平清盛の妻・平時子の異母妹に当たる平滋子だ。血筋からいっても平家色が濃い。 壇ノ浦の戦いで源氏に追い詰められ、祖母の二位尼(清盛の妻・時子)に抱かれて海に沈んだときは数えで8歳だった。 源氏側と思える守隨家が平家側の安徳天皇を邸宅で祀ったとは考えづらい。単に源氏対平家という対立構造ではない関係性や理由があったのだろうか。 安徳天皇が怨霊化したという話は聞かないけど、御霊として祀るとしても守隨家では関係性が遠いように思う。 祭神も社名も当初はまったく違うものだったという可能性も考えられる。
『愛知縣神社名鑑』は続けて書く。 「その後材木町の氏神と尊崇あつく殊に水難除けの神として崇敬する。昭和4年7月4日今の社地遷座した」 「水難除けの神」として安徳天皇を祀るのは皮肉が過ぎるのではないか。 と、ここまで書いてきて今更気づいたのだけど、ここは安徳天皇を祀る水天宮ではなく、仏教でいうところの水天を祀る社だったかもしれない。 神社入り口の社号標は「水天宮社」となっているものの、神社本庁の登録名は「水天社」だ。初めからそのことに気づくべきだった。 水天は十二天のうちの一天で、須弥山(しゅみせん/古代インドの世界の中心の聖なる山)の西にすんでいるとされた。 水の神で、竜を操るともされ、古代インドなどではヴァルナという最高神だった。 仏教に取り込まれて西の守護神となり、日本では天之水分神・国之水分神(あめのみくまりのかみ・くにのみくまりのかみ)と習合した。 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)では祭神を天之水分命・國之水分命としている。 『古事記』は速秋津日子神と速秋津比売神が、河と海に分けて神々を生み、その中で天之水分神と国之水分神が生まれたと書いている。 安徳天皇は在位のまま入水したことから水天皇とも呼ばれ、水天と同一視されるようになった。 水天をアメノミナカヌシとしたのは明治の神仏分離令以降のことだから、白鳥水天社が安徳天皇を祀るとしたのも明治以降に違いない。やはり、守隨家は安徳天皇を祀ったりはしていないだろう。 しかしながら、だとしても何故、秤一族の守隨家が水の神を祀っていたのかという疑問が残る。 水天社があるのは堀川に近い場所とはえ、堀川は人工の運河で頻繁に氾濫するするような川ではない。秤を船で運ぶにしても水難除けというのは違うように思う。水神が棲むような川でもない。 後に材木町の氏神となったとあるように、ここは材木商が集まる町だった。当時の材木は水路で運んでいて、このあたりは材木の集積所でもあった。そういうことでいえば、水の神様を祀ることは不自然ではない。 だとすれば、守随家にあった頃と材木町の氏神となってからとでは違う性格の神社になったということか。 水天宮といえども、必ずしも安産祈願の神社ではないことだ。久留米や日本橋の水天宮と熱田白鳥の水天社は別ものと考えた方がよさそうだ。この神社に安産祈願をするのは筋違いかもしれない。
作成日 2017.8.24(最終更新日 2019.9.9)
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