神明社(高畑)

荒子観音と絡むのか絡まないのか

高畑神明社

読み方 しんめい-しゃ(たかばた)
所在地 名古屋市中川区高畑1丁目41番地 地図
創建年 不明(1719年または1620年とも)
社格等 村社・十二等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
 アクセス

・地下鉄東山線「高畑駅」から徒歩約4分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 高畑は「たかばた」と濁って読む。江戸時代ここは高畑村だったところで、その頃は「たかはた-むら」と濁らなかったはずなのだけど、いつから濁るようになったのだろう。
 名古屋市民の多くは高畑というと地下鉄東山線の終点という認識だと思う(もちろん高畑の人からすれば始発だ)。
 しかし、名前だけは知っているけど行ったことはないという人が多いじゃないだろうか。特に名古屋駅より東側に住んでいる人にとってはそうだろう。高畑行きの地下鉄に毎日のように乗っている人でも、用事もなく高畑まで行くことはまずない。あるとすれば寝過ごしたときくらいだ。
 何故、東山線は中川区にちょろっと入った高畑で止まってしまったのか。採算性のこともあるだろうけど、中川区は南北に大小何本もの川が流れているから、地下の工事が難しいという理由もあったかもしれない。
 それにしても高畑で止まってしまうと、そこから先がどうにもつながらない。せめて関西本線か近鉄の駅とつないでほしかった。後にできたあおなみ線とも連絡していない。

『尾張国地名考』(津田正生)は高畑村についてこう書いている。
「【天野信景曰】 中郷横井荒子高畑はもと一郷なるべし 往昔荒子の観音は今の高畑村の北八田村の堺に在し 後世其地の高きを畠に開て高畑村と名づく 此故に本堂大門の名いまも田圃に残れり礎石も所々にあり」

 荒子観音は高畑村と八田村の堺あたりにあって、それが現在地に移築した後、高い場所を畑にしたから高畑村と名付けたということだ。
 この移転は江戸時代中期の1727年といわれている。

『尾張志』には、「神明ノ社 高畑むらにあり」とある。

『愛知縣神社名鑑』は高畑の神明社についてこう書いている。
「創建は享保四巳亥年(1719)8月3日、といふ 熱田新田開墾達成の年で各所に入植進み、氏神之創設も活発であった。明治5年7月、村社に列格した」

 これは他の神明社と間違えている。
 ここは高畑村で熱田新田ではない。熱田新田はもっとずっと南だ。
 それに、熱田新田は1646年(正保3年)に尾張藩藩主の徳川義直が国奉行に命じて計画させて1649年(慶安2年)に完成している。1719年に開墾達成というのもおかしい。

 昭和57年に建てられた境内の由緒書きの石碑にはこうある。
「当神明社は由緒は詳らかではありませんが、尾張における伊勢神領御厨一楊庄の中央やや東南に位置し、天平年間創設と伝えられる(後略)」
 天平年間はあり得ないと思うけど、神社創建ではなく創設となると、一考の余地があるか。
 天平年は729年-749年で、聖武天皇の時代だ。仏教によって国を救おうと考えた聖武天皇は奈良に東大寺を建てたり、各国に国分寺を建てるように命じたりした。東大寺の大仏は745年に制作が開始され752年に完成している。
 荒子観音の寺伝によると、729年で泰澄が開き、泰澄の弟子の自性が堂宇を整えたということになっている。
 その観音寺が高畑にあったとするならば、この高畑神明社の前身である社が観音寺にあって、それが後に高畑神明社となったという可能性はなくはない。
 創建は江戸時代前期の元和6年(1620年)という話もあるのだけど、高畑村が荒子観音が移った後にできたとして、村の氏神として建てられたのなら1727年以降ということになりはしないか。
 高畑のあたり一帯が伊勢の神宮の荘園だったのは確かで、平安時代末頃に成立したとされている。だから、鎌倉時代か室町時代あたりに神明社が建てられたとしてもおかしくはない。
 結局のところはっきりしたことは分からないというのが結論ということになる。

 戦争の空襲では焼けなかったものの、昭和34年の伊勢湾台風で被害を受けたようだ。
 昭和40年には周辺の区画整理が行われ、秋葉社、天王社、金刀社が移されてきた。
 昭和53年に地下鉄が境内を通ることになり、交付金が出たため、社殿を一新したと由緒碑に書かれていた。予定していたよりも立派な社殿が建ちましたとあるから、名古屋市からけっこうお金が下りたのかもしれない。
 伊勢湾台風で多くの木が倒れてしまったとのことだけど、今でも参道の両脇には古い桜の木などが立ち並んでいて、けっこういい雰囲気を保っている。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

高畑神明社の成り立ちはよく分からないけどきれいな神社だ

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