千年2丁目にある八幡社(地図)は、江戸時代最後に尾張藩の藩地方勘定所が開発した熱田築地前新開(のちに作良新田と改称)の氏神として尾張藩2代藩主光友が建てた御下屋敷の庭にあった社を移して祀ったとされる神社で、それは1837年のことという(神社明細帳では1841年)。神社本庁にも所属していて、わりと素性のはっきりしている神社だ。
それに対して千年1丁目の八幡神社について分かることは少ない。神社本庁にも所属しておらず、江戸時代の書にも手がかりは見つけられなかった。
神社がある千年1丁目は延宝3年(1675年)に御船奉行だった横井作左衛門が尾張藩に願い出て自力で堤を築いて新田を開発したところで、船方新田と呼ばれていた。10町ほどの畑だったという。
享保7年(1722年)と享保14年(1729年)の暴風雨で水に浸かり、資金不足で堤の修繕ができなかったため、元文元年(1736年)に山崎村の徳左衛門が代わりに工事を行った。しかし、その借金が返せず、弘化元年(1844年)に藩が買い上げることになった。
嘉永3年(1850年)には宅地として尾張藩が貸し付けることになる。
こういった経緯の中、いつ誰がこの八幡社を建てたか、ということになる。
新田開発をした御船奉行の横井作左衛門が勧請したと考えるのが自然なのだけど、それならそういう話が伝わっていそうなもので、それがないということは違うのか。それに御船奉行が八幡神というのもちょっと合わない気もする。
千年2の八幡社が建てられたのが1837年。その前だったのか後だったのか。
推測するのが難しい神社だ。
現地で得られた手がかりとしては、鳥居裏に「大正十二年十一月」とあるのと、社が三社あって中央が大きな流造で、左右が小さな板宮造というくらいで、他にはこれといった情報はなかった。
千年のあたりも空襲の被害はあっただろうし、昭和34年の伊勢湾台風でも無事に済んだとは思えない。
『尾張志』(1844年)にも『尾張徇行記』(1822年)にも船方新田の神社については何も書かれていない。
千年(ちとせ)の地名は、明治9年(1876年)に船方新田と作倉新田が合併して千年村になったのが始まりだ。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、千年の集落があったのは2丁目の西側で、1丁目は空白地帯になっていて寶田村地となっている。このときの状況がよく分からないのだけど、1丁目あたりに神社があるようには思えない。2丁目の八幡社は鳥居マークが描かれている。
1920年(大正9年)になると、1丁目も東半分が住宅地になり、西半分は田んぼになった。一気に家が増えている。
1932年(昭和7年)にはますます住宅が増え、いくつかの工場も建った。
1937-1938年(昭和12-13年)の地図からは工場マークが消えて全体が住宅地になったようだ。
戦後はまた工場地帯となり、その他は空白地が目立つ。おそらく空襲で焼けた跡に工場が建てられたのだろう。
熱田高校が創立されたのが昭和28年(1953年)で、この頃には町も復興し、戦前以上に家が増えた。
1968-1973年(昭和43-48年)の地図で初めて現在地に鳥居マークが現れる。
船方新田ができたのは江戸時代前期の1675年で、新田自体は紆余曲折あったとはいえ江戸時代を通じて神社がなかったとは考えにくい。だから、少なくとも1700年代にはあったのではないか。
ただ、だとしたら江戸時代の書にまったく情報がないというのは不自然だし、やはり分からないとしか言いようがない。
もともと別の場所にあったものをここに移した可能性は考えられる。明治かもしれないし昭和かもしれない。
とりあえず現状で分かるのはここまでだ。心にとどめておいて何か引っかかってくれるといいのだけど。
【追記】 2020.10.16
この八幡神社は千年2丁目の八幡社(千年2)から勧請して建てられたものだと教えていただいた。
南の千年2丁目は千年村で、北の千年1丁目は古くは寶田村地だったから別の地区だったと考えていいだろうか。そちらの住人が自分たちの地区にも神社が欲しいということで千年2丁目の八幡社から勧請したということは考えられる。
千年2丁目の八幡社が大曽根の御下屋敷から移されたのが1837年(神社明細帳では1841年)というから、それ以降ということになる。江戸時代末か、明治に入っていたかもしれない。
船方新田だった場所には長らく神社がなかったということだろうか。
千年2丁目の八幡社についてはある程度はっきりしたけど、千年1丁目の八幡神社に関してはまだ調べがついていないことが多い。引き続き調査対象としたい。
作成日 2018.11.29(最終更新日 2020.10.16)
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