赤星神社

赤星は神か地名か?

赤星神社

読み方 あかぼし-じんじゃ
所在地 名古屋市中川区富田町千音寺赤星裏4589 地図
創建年 不明
社格等 郷社・十等級
祭神

根裂尊(ねさくのみこと)

 

・JR関西本線「春田駅」から徒歩約35分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 この赤星神社は『尾張国内神名帳』に載る「正四位赤星名神」かどうかという問題がある。
『尾張国内神名帳』は平安時代末期に成立されたとされる尾張国の主な神社一覧で、後世に追記されたり書き換えられたりしたため、写本によっていくらか違いがある。
 国府宮威徳院蔵本の写本では横に朱で「従二位」とし、名神の横に「天」神と書き足している。この朱書きは天王坊本との差異を書いたものとされる。
 中川区千音寺の赤星神社が『尾張国内神名帳』の赤星名神であれば、平安時代にはすでにあった古社ということになる。しかし、この神社は室町時代に創建されたという話がある。だとすれば当然ながら『尾張国内神名帳』にある赤星名神ではないということだ。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではないが、『国内神名帳』に従二位赤星明神とあり『参考尾張本国帳』にも従二位赤星神社と載す神社である」
 明神は名神の間違いとして、現状は中川区千音寺の赤星神社を赤星名神とすることで落ち着いたということか。
 江戸時代までは『尾張国内神名帳』の赤星名神がどの神社のことかは、それぞれ意見が分かれていた。

『尾張志』にはこうある。
「本国帳に従三位赤星名神と見え同集説に富安荘東川村の星宮を此社とす當郡千音寺村に赤星明神といふ社あり又海西郡西保村に星宮あり市江島七ヶ村の産土神とす頗大社也いつれも星宮なれど帳内の神とも定めかたし」
 候補となる神社が4社あって、そのいずれとも決めかねるというのだ。
 富安荘東川村は、かつての海西郡八開村で、現在の愛西市上東川町に当たり、星大明神社と名乗っている。
 海西郡西保村は以前の海部郡佐屋町で、現在は愛西市西保町となる、星大明社と称している。
 市江島七ヶ村は以前の海部郡弥富町で、今は弥富市になっているのだけど、星のつく神社はない。廃社となってしまったのか、合祀されたのか、名前を変えたのか。
 千音寺村が中川区千音寺の赤星神社だ。

『尾張名所図会』では、「赤星明神社 西保村にあり。星の宮と称して当所の産土神とす。本国帳に従二位赤星名神とあり」と、西保村の星宮としている。
 江戸時代の神社研究の書、『参考尾張本国帳』で天野信景(あまのさだかげ)は、「従二位 赤星名神 富安庄川村 星ノ宮と称す」として、東川村の星宮がそうだと言っている。
 それらを受けて、津田正生は
『尾張国地名考』の中でこう書く。
「【近藤利昌曰】千音寺村赤星明神といふ産神是也 村落の南にあり 戦国に一変していまの宮地は新地なるべし 集説に東川村星の宮といひ府志に西保村の星の宮といへるは並に誤なり。
【正生考】あかほしは明星とかくをよしとす 赤の字は填字也 明星は歳星をいふと也 扨(さて) 星を祀りえ宮居とせることは本朝の格例にあらず漢方に倣へる物か 又考に後世室町以降は田所水利に功ある官人の霊社を立て或は星の宮或は云々(後略)」
 近藤利昌が言うには東川村も西保村も間違いで、千音寺村の赤星明神こそが『尾張国内神名帳』の赤星名神だと紹介し、自分はあかほしは明星(金星)のことだけど、明星は歳星のことで、そもそも日本では星信仰はあまりないから中国からの信仰だろうというようなことを書いている。
 田んぼの開拓や用水路などを作った役人を祀る社を建てて星の宮と称したどうこうということがよく分からない。

 どこの星宮が赤星名神なのかという結論は先送りとし、赤星ということを少し考えてみたいと思う。
 このあたりの赤星という地名は隕石が落ちてきたことに由来するという話がある。
『尾張国風土記』の玉置山(たまおきやま)の項に、ひとつの小石があって、昔の人の言うには空から落ちてきた赤星だという。山の麓(ふもと)に星池と呼ばれる池があって、今でもときどき山に星が落ちてくるそうだ、といったことが書かれている。
 この『尾張国風土記』は8世紀に編さんされた古風土記ではなく戦国時代以降に書かれた『日本総国風土記』の一部で、古風土記を真似た偽書という説もある。
 名古屋で星が落ちてきた場所というと、南区の星﨑がある。星宮社もそれに由来するという説がある。
 あちらは記録もあり、石も残っていて、『尾張志』や『尾張名所図会』などでも書かれているのに対して、赤星のエピソードは『尾張志』、『尾張名所図会』ともに紹介されていない。もし本当にあったことならこんな面白い話を載せないはずがないと思うのだけどどうだろう。
 赤星という地名がいつからあったのかというのもひとつのポイントで、江戸時代には千音寺村となっていた。村名は千音寺というお寺から来ているとしつつ、江戸時代にはすでにその寺はなかったという。
 その後、明治22年(1889年)に赤星村は復活する。千音寺村、新家村、正治村が合併してできた。
 現在は赤星裏や赤星小学校などに村名の名残がある。読み方は「あかぼし」なので、神社も「あかぼし-じんじゃ」が正式名だ。
 赤星という地名が先なのか、赤星神社から赤星の地名が出たのか、それは分からない。

  次にこの神社は本当に星や星神にまつわるものなのかという点を考えてみる。
 祭神は根裂尊(ネサク)となっている。これはかなり珍しい。
『古事記』や『日本書紀』の一書で、イザナギがイザナミを死なせた火の神カグツチを十拳剣で斬り殺したとき、剣の先に付いた血が岩について生まれたのが磐裂神(イワサク)で、次に生まれたのが根裂神(ネサク)だとしている。
『古事記』では石析神、根析神と表記していて、岩や根を切り裂くような大きな力の神といった意味だとする説がある。
 星神とはまったく関係がない気がするのだけど、星にまつわる神社でイワサク・ネサクを祀るところがあるというから、ここだけのことではない。
 赤星神社の場合は、ネサク単独で祀っている。これはどういうことを意味しているのだろうか。

 赤星は明星(みょうじょう)のことで、明星は「あかほし」ともいう。一般的に明けの明星といえば夜明けの空に見える金星のことを指す。
 津田正生がいう「明星とは歳星をいふと也」というのはよく分からない。歳神は木星のことで、中国では重要視された星だけど、日本では木星の話はほとんど聞かない。
 金星にしても木星にしても、それらを神として祀るといったようなことは日本にはなかったのではないか。
 隕石云々という話も信じられないとしたら、星に関係がある神社ではないということかもしれない。
 ただ、『尾張国内神名帳』に赤星名神が載っていて、赤星村というのがあったということは確かで、赤星とただの星はやっぱり違うだろうと考えると、この赤星神社を赤星名神とすることに無理がないと思うのだけどどうなんだろう。
 室町時代創建というのはどこから出てきた話なのか、それがよく分からないのでなんとも言えない。

 赤星に絡めてもうひとつだけ書いておくと、『先代旧事本紀』に天津赤星(あまつあかほし)という神が登場する。
『先代旧事本紀』は偽書とされることが多いのだけど、書かれたのは平安時代前期と考えられていて、古いことは古い。
 この中で天津赤星は饒速日尊(ニギハヤヒ)に従って天降りしたと書かれている。
 これは、まつろわぬ神、天津甕星(アマツミカボシ)のことではないかという考えもあり、そうなると天香香背男(アメノカガセオ)ともつながってくるわけで、星宮ではなく赤星としたことに意味があったということにもなる。
 祭神が根裂尊(ネサク)なのは最初からなのか途中からなのかも重要な点には違いないのだけど、それを知る手がかりはない。

 最後に現実的な歴史についても触れておく。
『愛知縣神社名鑑』は続ける。
「『富田村誌』に古昔は国司が親(みずか)ら祭典を行ひし社なり 従二位とは祭典の品級を別つための名称にて人の位階とは同じからず、境内一反歩足利幕府鎌倉幕府より公課免除せるを前々除地という、徳川幕府検地の上、上田三畝歩寄進を備前検除という、これは殉行記による。 明治維新前は社僧あり、竹生山松隣寺と称し津島興善寺の末寺たり、明治5年、村社に列格し、昭和18年、郷社に昇格した。 昭和55年、高速自動車道路設置により止むなく社地を北方50メートルに移す」
 これによると、古くは国司自らがこの神社の祭祀を執り行ったということ、鎌倉、室町時代以降、除地(じょち/よけち=税や労役を免除されること)とされたこと、江戸時代には津島市の興善寺の末寺が神宮寺として境内にあったことが分かる。 
 昭和18年に郷社に昇格して、昭和55年に高速道路建設にともなって50メートル北へ移動したということのようだ。
 参道脇の灯籠が狭い間隔で並んでいるのはそのせいなのだろう。遷座する前はもっと広い社地だったのではないだろうか。

 個人的な感覚でいうと、すごく古い神社という感じはしないけど新しいともいえない、といったところだろうか。
 高速ができる前の姿を見たら違う感想を抱いたのだろう。
 この赤星神社が赤星名神かどうかも含めてどういう神社かは、それぞれの判断に委ねたいと思う。私にはなんとも言えない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

赤星神社の雰囲気がよく分からない

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