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赤星神社

赤星はただの星神ではないのか

赤星神社

読み方 あかぼし-じんじゃ
所在地 名古屋市中川区富田町千音寺赤星裏4589 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 郷社・十等級
祭神 根裂尊(ねさくのみこと)
アクセス JR関西本線「春田駅」から徒歩約35分
駐車場 なし
その他 例祭 10月9日
オススメ度

 この赤星神社は『尾張國内神名帳』に載る「正四位赤星明神」かどうかという問題がある。
『尾張國内神名帳』は平安時代末期に成立されたとされる尾張国の主な神社一覧で、後世に追記されたり書き換えられたりしたため、写本によっていくらか違いがある。
 国府宮威徳院蔵本の写本では横に朱で「従二位」とし、名神の横に「天」神と書き足している。この朱書きは天王坊本との差異を書いたものだ。
 中川区千音寺の赤星神社が『尾張國内神名帳』の赤星明神であれば、平安時代にはすでにあった古社ということになる。しかし、この神社は室町時代に創建されたという話がある。だとすれば当然ながら『尾張國内神名帳』にある赤星名神(赤星大明神/赤星名神)ではないということだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、『国内神名帳』に従二位赤星明神とあり『参考尾張本国帳』にも従二位赤星神社と載す神社である」
 神社本庁の見解では『尾張國内神名帳』の赤星明神は千音寺村の赤星神社ということのようだ。
 しかし、江戸時代までは『尾張國内神名帳』の赤星明神がどの神社かは意見が分かれていた。

『尾張志』(1844年)にはこうある。
「本国帳に従三位赤星名神と見え同集説に富安荘東川村の星宮を此社とす當郡千音寺村に赤星明神といふ社あり又海西郡西保村に星宮あり市江島七ヶ村の産土神とす頗大社也いつれも星宮なれど帳内の神とも定めかたし」
 候補となる神社が4社あって、そのいずれとも決めかねるというのだ。
 富安荘東川村は、かつての海西郡八開村で、現在の愛西市上東川町に当たり、星大明神社と名乗っている。
 海西郡西保村は以前の海部郡佐屋町、現在の愛西市西保町で、星大明社と称している。
 市江島七ヶ村は以前の海部郡弥富町で、今は弥富市になっているのだけど、星のつく神社はない。廃社となってしまったのか、合祀されたのか、名前を変えたのか。
 千音寺村が中川区千音寺の赤星神社だ。

『尾張名所図会』(1844年)では、「赤星明神社 西保村にあり。星の宮と称して当所の産土神とす。本国帳に従二位赤星名神とあり」と、西保村の星宮としている。
 江戸時代の神社研究の書、『参考尾張本国帳』で天野信景(あまのさだかげ)は、「従二位 赤星名神 富安庄川村 星ノ宮と称す」として、東川村の星宮がそうだと言っている。
 それらを受けて、津田正生は
『尾張国地名考』の中でこう書く。
「【近藤利昌曰】千音寺村赤星明神といふ産神是也村落の南にあり戦国に一変していまの宮地は新地なるべし集説に東川村星の宮といひ府志に西保村の星の宮といへるは並に誤なり。
【正生考】あかほしは明星とかくをよしとす赤の字は填字也明星は歳星をいふと也扨(さて)星を祀りえ宮居とせることは本朝の格例にあらず漢方に倣へる物か又考に後世室町以降は田所水利に功ある官人の霊社を立て或は星の宮或は云々(後略)」
 近藤利昌が言うには東川村も西保村も間違いで、千音寺村の赤星明神こそが『尾張國内神名帳』の赤星名神だとし、自分(津田正生)はあかほしは明星(金星)のことだけど、明星は歳星のことで、そもそも日本では星信仰はあまりないから中国からの信仰だろうというようなことを書いている。
 田んぼの開拓や用水路などを作った役人を祀る社を建てて星の宮と称した云々ということもいっているのだけど、そのあたりは何とも言えない。

 どこの星宮が赤星名神なのかという結論は先送りとし、赤星ということを少し考えてみたいと思う。
 このあたりの赤星という地名は隕石が落ちてきたことに由来するという話がある。
『尾張国風土記』の玉置山(たまおきやま)の項に、ひとつの小石があって、昔の人の言うには空から落ちてきた赤星だという。山の麓(ふもと)に星池と呼ばれる池があって、今でもときどき山に星が落ちてくるそうだ、といったことが書かれている。
 この『尾張国風土記』は8世紀に編さんされた古風土記ではなく戦国時代以降に書かれた『日本総国風土記』の一部で、古風土記を真似た偽書という説もある。
 名古屋で星が落ちてきた場所というと、南区の星﨑がある。星宮社もそれに由来するという説がある。
 あちらは記録もあり、石も残っていて、『尾張志』や『尾張名所図会』などでも書かれているのに対して、赤星のエピソードは『尾張志』、『尾張名所図会』ともに紹介されていない。もし本当にあったことならこんな面白い話を載せないはずがないと思うのだけどどうだろう。
 赤星という地名がいつからあったのかというのもひとつのポイントで、江戸時代には千音寺村といっていた。村名は千音寺というお寺から来ているとしつつ、江戸時代にはすでにその寺はなかったという(行雲寺の別名が千手観音寺だったとも)。
 その後、明治22年(1889年)に、千音寺村、新家村、正治村が合併して赤星村となった。
 現在は赤星裏や赤星小学校などに名残がある。読み方は「あかぼし」なので、神社も「あかぼし-じんじゃ」が正式名のはずだ。
 赤星という地名が先なのか、赤星神社から赤星の地名が出たのか、それは分からない。

  次にこの神社は本当に星や星神にまつわるものなのかという点を考えてみる。
 祭神は根裂尊(ネサク)となっている。これはかなり珍しくて、名古屋で根裂を祀っている神社はここだけだ。栃木県鹿沼市に根裂神社があるけど、全国的に見ても少ないと思う。
『古事記』や『日本書紀』の一書で、イザナミを死なせた火の神カグツチをイザナギが十拳剣で斬り殺したとき、剣の先に付いた血が岩について生まれたのが磐裂神(イワサク)で、次に生まれたのが根裂神(ネサク)だとしている。
『古事記』では石析神、根析神と表記していて、岩や根を切り裂くような大きな力の神といった意味だとする説がある。
 星神とはまったく関係がない気がするのだけど、星にまつわる神社でイワサク・ネサクを祀るところがあるから、ここだけのことではない。
 赤星神社の場合は、ネサク単独で祀っている。これはどういうことを意味しているのだろうか。

 津田正生がいうように赤星は明星(みょうじょう)のことで、明星に赤星の字を当てた可能性は考えられる。一般的に明けの明星といえば夜明けの空に見える金星のことを指す。「明星とは歳星をいふと也」というのはよく分からない。歳神は木星のことで、中国では重要視された星だけど、日本では木星を神格化したような話は聞いたことがない。
 金星にしても木星にしても、それらを神として祀るといったようなことが日本にあったかどうか。
 隕石云々という話も信じられないとしたら、星に関係がある神社ではないということかもしれない。
 とはいえ、『尾張國内神名帳』に赤星名神が載っているという事実があり、赤星村というのがあったとすれば、神由来にしても地名由来にしても赤星が何かを表していたことは間違いない。
 そうなると、ただの星ではなくあえて赤星とした理由は何だったかということになる。「あかぼし」という言葉が先にあったとしても、星以外に何かあるだろうか。
 赤星に絡めてもうひとつ書いておくと、『先代旧事本紀』(平安時代初期)に天津赤星(アマツアカボシ)という神が登場する。
 この中で天津赤星は饒速日尊(ニギハヤヒ)に従って天降りした五部人(いつとものお)の中の一柱とされており、筑紫(つくし)の弦田(つるた)の物部たちの先祖といっている。
 ここで急に物部の一族といわれても戸惑うのだけど、福岡県久留米市高良内町に赤星神社があることからしても、この記述は無視できない。少なくとも古い時代に天津赤星の後裔を自認する一族がこの地に住んでいたということなのだろう。
 その一族と尾張の赤星神社が関係あるのかどうかは分からない。
 物部が関係ある可能性はあるのだけど、そうなると物部と根裂尊(ネサク)がつながるかどうかということになり、この推測は宙に浮いてしまう。
 天津赤星は天津甕星(アマツミカボシ)のことという考えもあり、そうなると天香香背男(アメノカガセオ)ともつながってくるわけで、星宮ではなく赤星としたことに意味があったということにもなる。
 祭神が根裂尊(ネサク)なのは最初からなのか途中からなのかも重要な点には違いないのだけど、それを判断するための情報はない。
『尾張徇行記』(1822年)などでは大明神となっているだけで、祭神や創建のいきさつについて知ることはできない。

『愛知縣神社名鑑』はこんなことも書いている。
「『富田村誌』に古昔は国司が親(みずか)ら祭典を行ひし社なり 従二位とは祭典の品級を別つための名称にて人の位階とは同じからず、境内一反歩足利幕府鎌倉幕府より公課免除せるを前々除地という、徳川幕府検地の上、上田三畝歩寄進を備前検除という、これは殉行記による。明治維新前は社僧あり、竹生山松隣寺と称し津島興善寺の末寺たり、明治5年、村社に列格し、昭和18年、郷社に昇格した。昭和55年、高速自動車道路設置により止むなく社地を北方50メートルに移す」
 古くは国司自らがこの神社の祭祀を執り行ったということ、鎌倉、室町時代以降、除地(じょち/よけち=税や労役を免除されること)とされたこと、江戸時代には津島市の興善寺の末寺が神宮寺として境内にあったことが分かる。 
 昭和18年に郷社に昇格して、昭和55年に高速道路建設にともなって50メートル北へ移動したという。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、千音寺村の南東端に神社が位置していたことが分かる。
 参道脇の灯籠が狭い間隔で並んでいるのはそのせいで、遷座する前はもっと参道は長かったのではないかと思う。
 個人的な感覚でいうと、すごく古い神社という感じはしないけど新しいともいえない微妙な感じといったところだろうか。遷座する前の姿を見たら違う感想を抱いたのだろう。

 この赤星神社が『尾張國内神名帳』の赤星明神かどうかについては、他の候補神社について調べてからでないと結論は出せない。
 ただ、候補となる神社のうち、赤星と名乗っているのはここ千音寺の赤星神社だけということを考えると、千音寺の赤星神社がそうである可能性は高そうだ。
 一般的な星信仰ではない赤星と称する特殊な信仰があったとも考えられる。

 

作成日 2017.6.19(最終更新日 2022.5.1)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

赤星神社の雰囲気がよく分からない

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