泥江縣神社

古社と非尾張氏系と熱田台地の関係は

泥江縣神社

読み方 ひじえあがた-じんじゃ
所在地 名古屋市中区中区錦1-7-29 地図
創建年 伝・859年(平安時代前期)
社格等 郷社・十一等級
祭神

應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
姫大神(ひめおおかみ)

 アクセス

・地下鉄鶴舞線「伏見駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

 泥江縣神社は江戸時代になって名古屋城下に取り込まれる格好になったとはいえ、その歴史は古く、熱田台地の北部に位置する神社と捉える必要がある。
 古代、海面が今よりも高かった頃、名古屋の西半分は海の底だった。そのため、平地より標高が高い熱田台地の上で人は暮らしを営んでいた。それは南北に細長い格好をしており、象の鼻にたとえられる。
 南の岬の突端近くに建てられたのが熱田神社で、北西の端に江戸時代になって家康が名古屋城を築城した。
 南から見ていくと、熱田神社(地図)の上(北)に尾張地方最大の前方後円墳、断夫山古墳(だんぷさんこふん/151m/地図)や白鳥古墳(地図)があり、その少し上に高座結御子神社(地図)と高蔵古墳群(地図)がある。
 金山駅周辺(地図)でも正木町遺跡(地図)の他、大小の遺跡が見つかっており、尾張最古の寺とされる尾張元興寺(地図)があったのもこの場所だ。
 更に北に上がって大須付近には大須二子山古墳(地図)や那古野古墳(地図)があった。
 そして、古墳や遺跡はここで唐突に途切れる。ここより北ではそういったものは見つかっていないと思う。見つかっていないだけかもしれないけど。
 大須のすぐ北に、洲崎神社(地図)がある。ここは石神を祀る古い神社があり、あるいはそれは弥生、縄文までつながるものかもしれないとされている。
 その洲崎神社の900メートルほど北に泥江縣神社がある。
 熱田台地の北の端には若宮八幡社(地図)があった(名古屋城築城の際遷座)。
 その他、平安末創建の闇之森八幡社地図)や式内社とされる日置神社地図)なども熱田台地上にある。
 若宮八幡社の創建は天武天皇の680年頃。洲崎神社は860年頃。泥江縣神社は859年という。
 大須より北の古墳や遺跡が見つかっていない地域のこれら古い神社をどう捉えるべきなのか。
 熱田は尾張氏の本拠だったところで、高座結御子神社も尾張氏に取り込まれたと見られている。断夫山古墳などは尾張氏の誰かの墓というのが定説だ。大須二子山古墳は微妙なところだ。尾張氏かもしれないし、古井村あたりを拠点にしていた物部氏関係のものという可能性も考えられる。
 熱田台地の北部エリアに関しては、尾張氏の影が見えない。古墳がないというのもそうだし、神社の系統が違う。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「『国内神名帳』に従三位泥江縣天神とあり、泥江転じて広江となり又広井と呼ぶ 社記に清和天皇の貞観元年(859年)宇佐より勧請し、天正の頃より広井八幡宮と称していた」
 社記というからには単なる言い伝えとかではなく記録があるということだろう。しかし、これはちょっと信じがたい。
 859年といえば、京都の石清水八幡宮(860年創建)より1年前ということになる。
 三大八幡宮のひとつとされる福岡市の筥崎宮(はこざきぐう)の創建は921年とされている。
 これらの神社よりも早い時期に宇佐八幡宮から勧請したとしつつ、『延喜式』神名帳に載っていない(石清水八幡宮が『延喜式』神名帳に載らなかったのは創建当初から神宮寺と一体化した宮寺形式だったからか)。
 筥崎宮は921年創建にもかかわらず、927年完成の『延喜式』で早くも名神大とされている。
『延喜式』神名帳から漏れた古社も多いとはいえ、縁起が正しいとすれば官社に選ばれなかった理由は何だったのか。
『愛知縣神社名鑑』の作者がどの『国内神名帳』を見て「従三位泥江縣天神とあり」としているのか分からないのだけど、国府宮威徳院蔵本の愛智郡座廿六所にも、犬山針綱神社神主赤堀氏蔵本の愛智郡十七座にも、泥江縣神社は載っていない。
『尾張国内神名帳』は平安末期に作成されたとされる尾張国の神名帳のことで、写本がいくつかあって内容に違いがあるので、私の知らない『尾張国内神名帳』に載っているのかもしれないのだけど、江戸時代中期(1707年)の『本国神名帳集説』(天野信景)と混同している可能性がある。前者は「国内神名帳」、後者は「本国神名帳」と略されるので間違えやすい。『本国神名帳集説』には「従三位 泥江縣天神 那古野ノ庄 廣井村 称八幡」とある。
 もし『尾張国内神名帳』に泥江縣神社が載っていないとするならば、それは洲崎神社にも、若宮八幡社にも同じ事が言える。二社とも『延喜式』神名帳にも、『尾張国内神名帳』にも載っていない。歴史も由緒も申し分ないにもかかわらずだ。
 熱田台地の北部を支配していたのはどういった勢力だったのかはテーマとして大きすぎてここでは書ききれないのだけど、今後とも検討を続けていかなければならないと思っている。

 泥江縣神社は「ひじえあがた」と読む。
 泥は古語で「ひぢ」と呼んでいて、圡(土の中に点)という字が使われた。その名残で泥を「ひぢ/ひじ」と読ませている。
 中区、中村区には圡、泥の地名が多く残っており、中村区の圡江神社もそのひとつだ。それだけここらは湿地帯が多かったということだ。
 江は入り江の江だろう。
 縣(あがた)は大和政権の直轄地や国造の支配下という意味だけど、もともと潟(がた)だったかもしれない。
 入り江の潟、つまりは入海の浜辺のような地形からそう呼ばれるようになったと考えられる。
 少し南の洲崎神社も同じようなもので、洲は中州を意味している。

 江戸時代は廣井八幡と称していた。
 廣井の由来について『愛知縣神社名鑑』は「泥江転じて広江となり又広井と呼ぶ」としている。
 これは『尾張志』の「泥江を後に廣江と呼しが又うつりて廣井といふ也 舊は江といひしを後に井といふは当國葉栗郡玉ノ江を玉ノ井 愛智郡横江を横井 中島郡阿古江を阿古井といふおなじ例也」から引いたものと思われる。
「ひぢえ」を「ひろえ」と呼んで、「江」を「井」を言うというのは、ちょっと苦しい気もするけどどうなんだろう。
 江戸時代の廣井村は、堀川の西、江川との間の南北に細長い土地で、北は五条橋のラインから南は納屋橋の南あたりまでの範囲だった。
 名古屋城が築城される以前、堀川が掘られるまでは堀川の東も廣井村だったようだから、泥江縣神社も廣井村の中にあったということではないだろうか。
 かつての泥江縣神社(廣井八幡)は、御園町、伝馬町、葭町、材木町すべてが境内だったようで、一説では八丁四方あったという。872メートル四方というと名古屋城内と名城公園をあわせたくらいの広さになってしまうから、ちょっと大げさかもしれない。
 それでも、宗春が藩主だった頃は境内に芝居小屋が作られたというから相当広かったのは間違いない。桜通を挟んで北にある白山権現(白山神社)も江戸時代初期までは泥江縣神社の境内にある末社だったという。
 応永、永禄、慶長、寛永に修造した記録が残る他、寛文二年(1662年)には二代藩主の光友が修造している。

『尾張志』は縁起についてこう書いている。
「鎮坐の年月しらすれ社記に古称廣江明神応永以来至永禄梁牌末書八幡天正七年造替前後而称廣井八幡宮とあり」
 続いて祭神については「
中坐を応神天皇とし右神功皇后 左姫大神なりといふは八幡といふより出たる中世己後のさたなり」とする。
 古くは廣江明神と称していて、室町時代中期以降廣井八幡と呼ぶようになったと。
 祭神は応神天皇、神功皇后、姫大神とする。
『尾張名所図会』は祭神を「応神天皇 神功皇后 玉依姫命」としている。
 姫大神は主祭神の妻などゆかりの女神の総称だったりするのだけど、八幡社の場合は宗像三女神(田心姫君、湍津姫君、市杵島姫)とされたり、玉依姫とされたりする。このへんはちょっとはっきりしない。
 明治26年(1893年)に浅井広国が出した『尾張名所独案内』では、「延喜年中の創建にして頗(すこぶ)る有名なる古祠(こし)なり 応仁天皇を祭る境内広大美麗にして」と書かれている。
 延喜年中は901年-923年だ。この時期に創建されたとする根拠はどこにあるのだろう。
 津田正生は『尾張国神社考』の中でこれらの話をすべてひっくり返してこう書いている。
「【瀧川弘美曰】 集説に袋町の西八幡宮といへるは取かたし
 【一人曰】 上宿泥町(かみすくどろまち)に武島天神とて小社あり。上宿は神宿歟、泥(ひぢ)とどろと同。疑らくは此小社歟
 【弘美曰】三津蔵筋御園町の邊に、乳花薬師と呼小堂あり村民は是也といふ。一説に堀切の西なる不動堂也ともいふ。二所ともに今社頭あらねど本地堂の遺るもの歟。後人なほ尋ぬべし」
 そもそも『尾張国内神名帳』(『本国神名帳集説』?)にある泥江縣神社は廣井八幡のことではないとしているのだ。かなり飛躍した説なので、にわかには信じがたいというか判断がつかない。
『尾張名所図会』に「末社 神明社・熊野社・熱田社・洲原社・三狐神社・浅間社・兒御前社・恵比須社、其外小祠多し。また観音堂も一宇あり」とあるように、現在も境内社がたくさんある。

 この神社は火を呼び寄せるのか、何度か火事で焼けている。
 江戸時代は元禄十三年(1700年)と享保九年(1724年)の二度の大火で燃え、社殿や山車を焼失した。
 昭和20年(1945年)の空襲ですべて失い、昭和36年にやっと復興したと思ったら昭和40年(1965年)には不審火で社殿が焼けている。
 現在の社殿は昭和42年(1967年)に建て直されたもので、ここまで焼けてしまうと鉄筋コンクリート造にしてしまうのも仕方がないところか。
 山車があった頃は、例祭日に白山権現まで傘鉾を従えた神輿の渡御があったり、武者行列が出て藩主が見物したりと、祭りは大いに盛り上がったそうだ。

 歴史を見るとよく分からない部分や、本当にそれほど古い八幡だったのか疑わしいなどありつつ、この場が持っているエネルギーは相当強いものを感じる。都会の中にあって、きっちり結界が張られていて、外界とは隔絶されている。一歩境内に入ると、防音設備が整ったビルの中に入ったみたいにぴたりと外の喧噪が聞こえなくなるくらいだ。
 ここに満ちているエネルギーがどういうたぐいのものなのか私には分からないのだけど、それはちょっと普通ではない。ここから少し南へいったところにある洲崎神社でも同じようなものを感じた。
 熱田神社からかつての若宮八幡社まで、熱田台地の西を南北に走る一本のライン上に建てられていることは偶然ではないように思う。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

 

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