泥江縣神社

ビルの谷間の高エネルギー帯

泥江縣神社

読み方 ひじえあがた-じんじゃ
所在地 名古屋市中区中区錦1丁目7-29 地図
創建年 伝・859年または862年(平安時代前期)
旧社格・等級等 郷社・十一等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
神功皇后(じんぐうこうごう)
姫大神(ひめおおかみ)
アクセス 地下鉄鶴舞線「伏見駅」から徒歩約7分
駐車場 なし
その他 例祭 10月9日
オススメ度 **

 泥江縣神社は江戸時代になって名古屋城(web)下に取り込まれる格好になったとはいえ、その歴史は古く、熱田台地北部の西側に位置する神社と捉える必要がある。
 古代、海面が今よりも高かった頃、名古屋の西半分は海の底だった。そのため、平地より標高が高い台地の上で人は暮らしを営んでいた。熱田台地は南北に細長い格好をしており、象の鼻にたとえられる。
 南の岬の突端近くに建てられたのが熱田社熱田神宮/web)で、北西端に江戸時代になって家康が名古屋城(地図)を築城した。
 熱田台地の西側を南から見ていくと、熱田社(地図)の北に尾張地方最大の前方後円墳、断夫山古墳(だんぷさんこふん/151m/地図)や白鳥古墳地図)があり、その少し上に高座結御子神社地図)と高蔵古墳群地図)がある。
 金山駅周辺(地図)、かつての古渡には弥生時代以降の正木町遺跡地図)や伊勢山中学校遺跡など大小の遺跡が見つかっており、尾張最古の寺とされる尾張元興寺(願興寺/地図)があったのもこの場所だ。古渡には古東海道の新溝駅があったとも考えられている。
 その北の大須付近には大須二子山古墳地図)や那古野山古墳地図)などがあった。
 大須の北、現在の若宮大通をかつては自然河川の紫川が流れており、西の年魚市潟(あゆちがた)に注ぎ込んでいた。
 紫川の北では縄文時代の旧紫川遺跡地図)や白川公園遺跡地図)、竪三蔵通遺跡地図)がある。竪三蔵通遺跡からは約3万年前の旧石器時代の石器も出土している。
 洲嵜神社地図)は縄文時代の遺跡エリアにあることからしてもかなり古い創建(創祀)の可能性がある。
 泥江縣神社は、竪三蔵遺跡の少し北に位置している。かつては広大な境内を有していたから、遺跡エリアの北に隣接するような格好だ。
 その北では縄文時代の名古屋城三の丸遺跡や、北西端では名古屋城天守閣貝塚が見つかっている。濠からは銅鐸が出土したという話もある。
 名古屋城築城以前の熱田台地北西エリアにあった若宮(若宮八幡社)、八王子(八王子神社春日神社)、天王(那古野神社)、天神(武島天神社)、山神(上宿山神社)などはいずれも古い神社と考えられる。
 その他、台地北端中央部には片山神社、台地中央の中央部には日置神社があり、これらは『延喜式』神名帳(927年)に載る式内社とされる。南部の熱田社、八剣社、高座結御子神社など、熱田社関連の神社も式内社だ。
 これらの遺跡や古墳、神社の分布を踏まえた上で、熱田台地のどこからどこまでが尾張氏の勢力下だったかを考えてみる。南部から高蔵エリアまでは尾張氏の支配下だっただろう。古渡あたりでいったん尾張氏の影が消えるように思えるのだけど実際はどうだったのか。大須の古墳群も尾張氏の首長クラスのものだったのか。熱田台地北部の古い神社もすべて尾張氏の支配下にあったのかどうか。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「『国内神名帳』に従三位泥江縣天神とあり、泥江転じて広江となり又広井と呼ぶ 社記に清和天皇の貞観元年(859年)宇佐より勧請し、天正の頃より広井八幡宮と称していた」
 社記というからには単なる言い伝えとかではなく記録があるということだろう。しかし、これをそのまま信じていいのかどうか確信が持てない。
 宇佐神宮(web)の創建は欽明天皇32年(571年)頃と古いので859年に勧請ということに矛盾はない。ただ、京都の石清水八幡宮(web)が860年の創建なのに、その前年に尾張のこの地に宇佐八幡から勧請したということがあり得るだろうか。
 しかも、泥江縣神社が八幡を名乗るのはもっと後のことで、『国内神名帳』では泥江縣”天神”となっている。”縣”の”天神”は本当に宇佐八幡の八幡神、もしくは應神天皇のことを指しているのか。
 ちなみに、三大八幡宮のひとつとされる福岡市の筥崎宮(はこざきぐう/web)は921年創建ながら『延喜式』神名帳では名神大社とされている。
 石清水八幡宮が『延喜式』神名帳に載らなかったのは当所から神宮寺と一体化していたからだともいわれるのだけど、理由はよく分からない。泥江縣神社も『延喜式』神名帳には入っていない。
『愛知縣神社名鑑』がどの『国内神名帳』を見たのかは分からないのだけど、私が知っている
国府宮威徳院蔵本にも、犬山針綱神社神主赤堀氏蔵本にも、泥江縣天神は載っていない。国府宮威徳院蔵本と犬山針綱神社神主赤堀氏蔵本に載らなかった理由も気になるところだ。

 後藤邦四郎という人が昭和48年に出した『泥江県神社小伝』によると、貞観4年(862年)に京都の男山八幡(石清水八幡宮のこと)と同時に宇佐八幡から勧請して尾張のこの地に創建したという。
 それを行ったのは、尾張権介の笠弘興だとしている。
 笠弘興(かさ の ひろおき)は平安時代前期の貴族で、土佐守や尾張権介、遠江守、丹波守など、地方官を歴任した人物で、尾張権介に任じられたが862年なので、泥江縣神社を862年に創建したというのはなくはない。ただ、『愛知縣神社名鑑』がいう859年勧請ならそれは無理だ。
 この本によると、泥江縣天神として載っているのは1185年に編まれた『尾張本国帳』らしいのだけど、現在入手可能かどうか分からない。
 1185年は源頼朝が実質的に鎌倉幕府を開いた年に当たる。全国支配のための一環として神社の調査と報告を命じたのかもしれない。
 この『尾張本国帳』には朱雀天皇時代に従五位上、白河天皇時代に従四位下、崇徳天皇時代に従四位上、高倉天皇時代に正四位下、後鳥羽天皇時代に正四位上、後鳥羽天皇時代に従三位に昇格したとあるようだ。
 棟札で一番古いものは応永26年(1419年)のもので、「大檀那禰直衣源秋家」とあるという。
 その他、足利義満の命で尾張国の縣主に任じられた斯波武衛(義兼)が泥江を泥江縣神社にしたと書いている。
 斯波武衛家は室町幕府の三管領筆頭の斯波氏嫡流なのだけど、尾張守護職に任じられるのは応永の乱(1399年)の後のことで、それ以前に尾張国の縣主だったことがあったかどうか。斯波義兼という人物も知らない。

『尾張志』(1844年)はこう書いている。
「鎮坐の年月しらすれ社記に古称廣江明神応永以来至永禄梁牌末書八幡天正七年造替前後而称廣井八幡宮とあり」
 古くは廣江明神といっていて、応永年間(1394-1428年)以降に八幡と称するようになり、その後、天正7年(1579年)の記録では廣井八幡宮とあるといっている。
 社名については、「泥江を後に廣江と呼しが又うつりて廣井といふ也 舊は江といひしを後に井といふは当國葉栗郡玉ノ江を玉ノ井 愛智郡横江を横井 中島郡阿古江を阿古井といふおなじ例也」と書く。
「泥」は古語で「ひぢ」といっていて、
圡(土の中に点)という字が使われた。その名残で泥を「ひぢ/ひじ」と読ませる。
 中区、中村区には圡、泥の地名が多く残っており、中村区の圡江神社もそのひとつだ。それだけここらは湿地帯が多かったということだろう。
 江は入り江の江だろうか。
 明治26年(1893年)に浅井広国が出した『尾張名所独案内』では、「延喜年中の創建にして頗(すこぶ)る有名なる古祠(こし)なり 応神天皇を祭る境内広大美麗にして」と書かれている。
 延喜年中は901-923年だ。この時期に創建されたとする根拠はどこにあるのだろう。
 津田正生は『尾張国神社考』の中でこれらの話をすべてひっくり返してこう書いている。
「【瀧川弘美曰】 集説に袋町の西八幡宮といへるは取かたし
 【一人曰】 上宿泥町(かみすくどろまち)に武島天神とて小社あり。上宿は神宿歟、泥(ひぢ)とどろと同。疑らくは此小社歟
 【弘美曰】三津蔵筋御園町の邊に、乳花薬師と呼小堂あり村民は是也といふ。一説に堀切の西なる不動堂也ともいふ。二所ともに今社頭あらねど本地堂の遺るもの歟。後人なほ尋ぬべし」
 そもそも『本国神名帳』にある泥江縣天神は廣井八幡のことではないとしている。上宿の天神がそれだという話があるというのだけど、かなり飛躍した説なので、にわかには信じがたいというか判断がつかない。

『尾張志』では祭神を応神天皇、神功皇后、姫大神とする。
『尾張名所図会』(1844年)は祭神を「応神天皇 神功皇后 玉依姫命」としている。
 姫大神は主祭神の妻などゆかりの女神の総称だったりするのだけど、八幡社の場合は宗像三女神(田心姫君、湍津姫君、市杵島姫)とされたり、玉依姫とされたりする。このへんはちょっとはっきりしない。

『尾張名所図会』に「末社 神明社・熊野社・熱田社・洲原社・三狐神社・浅間社・兒御前社・恵比須社、其外小祠多し。また観音堂も一宇あり」とあるように、現在も境内社がたくさんある。
 桜通を挟んで北にある白山神社も江戸時代初期までは泥江縣神社の境内にある末社だったという。
 境内社のひとつに「つんぼ蛭子」という社がある。ここの蛭子神は耳が遠いので、社を叩いてから願い事を言わないといけないとされている。かつては社を直接叩いていたようだけど、今は魚の形をした木の彫り物が社前にあってそれを叩くようになっている。
 もともと古渡の稲荷社にあったものをここに移したようだ。修理が大変なので天保6年(1835年)に泥江縣神社にもらってもらったという話がある。
 八神社は創建当時からあったとされ、現在は天照皇大御神、伊邪那美命、保食大神、木花開耶姫命、啼佐波女命、田心媛命、菊理姫命、日本武尊を祀っている。
 楠社は愛知県士族の奥田一右ヱ門が彫った楠木正成の木像を明治2年に移して祀った。
 稲荷社は尾張藩士の落合友江の邸宅にあったものを天明3年(1783年)に移築。
 住吉社は川合丹左ヱ門の邸宅にあったものを宝暦4年(1754年)に移した。
 五条天神は尾張藩医師の小鹿淳庵が寛政5年(1793年)に祀った。
 金刀比羅社、天神社、秋葉社は詳細不明。

 この神社は火を呼び寄せるのか、4度も焼けている。
 最初は江戸時代の元禄13年(1700年)、続いて享保9年(1724年)にそれぞれ城下の火事の延焼で社殿や山車を失った。
 幸いにも逃げる時間があったため、神宝などは無事だった。城下の人の被害も死者は一名だったという。
 三度目は昭和20年3月19日の空襲で、このときは被害が甚大で、宝物や記録など大事なものも焼けてしまった。
 通常はここまでなのだけど、更に昭和40年には不審火によって社殿を全焼している。放火とも、浮浪者のたき火による失火ともいわれ、原因ははっきりしていない。
 現在の鉄筋コンクリート造の社殿は、昭和42年に建て直したものだ。

 江戸時代に山車があった頃は、例祭日に白山権現まで傘鉾を従えた神輿の渡御があったり、武者行列が出て藩主が見物したりと、祭りは大いに盛り上がったという。

 貞観4年(862年)に尾張権介の笠弘興が宇佐八幡から勧請して建てたというのが本当であれば、尾張氏とは関係ないということになる。
 しかし、土地柄を考えるともっと古くからある神社で、本来は八幡ではなかった可能性も考えられる。神仏習合の八幡神ではなく最初から應神天皇を祀った神社だったかもしれない。
 都心のビル街にあって境内はしっかり別空間になっている。しっかりした結界が張られているのか、強いエネルギーが感じられる。一歩足を踏み入れると、防音施設が整った建物の中に入ったような感じさえする。
 ここに満ちているエネルギーがどういうたぐいのものなのか私には分からない。ただ、尋常ならざる何かがある。それが火を呼んでしまうのかもしれないなどと思った。
 熱田台地の西の縁には一本のラインが引かれて要所に神社を配置してこの土地を守っているようだ。それを担った中心は尾張氏だったとしても、もっと多くの人たちが長い歳月をかけて作り上げてきた結界のようなものに思える。

 

作成日 2017.7.25(最終更新日 2019.3.9)

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