かつての野田村の三社のうちの一社。 江戸時代の書の野田村を見るとそれぞれこうなっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 神明 斎宮司 八王神 中郷村 祢宜 孫大夫持分 社内弐反九畝歩 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「神明社斎宮司社八王神社界内二反九畝前々除 府志ニモミエタリ」 「中郷村祠官高羽但馬守書上張ニ、神明境内八畝御除地、末社春日社八幡社 三狐神社内三畝御除地外ニ田九畝村除 八王子社内四畝御除地、外ニ田一反三畝村除、此三社草創ハ知レズ、再建ハ寛文七未年ナリ」
『尾張志』(1844年) 「神明ノ社 村の氏神也末社に白山社八幡社あり 八王子ノ社 氏神より東南にあり サグジノ社 氏神より東にあり」
江戸時代を通じて野田村の神社はこの三社で変わらなかったようで、神明は神明社(土野町)、三狐神(サグジノ)は三狐神社(野田)として現存している。 創建年は不明ながら前々除となっていることから1608年の備前検地以前からあったと考えられる。 『尾張徇行記』は三社とも1667年(寛文7年)に再建したと書いている。 少し気になるのは、「八王神」と「八王子」が混在している点だ。八王子と八王では意味がちょっと違ってくる。もともと八王だったのが八王子になったのか、最初から混在していたのか。 『愛知縣神社名鑑』は、「創建は明かではない。荒子村野田に鎮座崇敬あつく明治6年据置公許となる」とするだけで詳しい説明はない。
神社の由緒書きでは、祭神を天照大神(アマテラス)と須佐之男命(スサノオ)の誓約(うけい)で生まれた五男三女神としている。 『愛知縣神社名鑑』は祭神を天照大御神と須佐之男命とする。 もともとは八王子権現だったと由緒書きに記してあるので、五男三女神をあてはめたのは明治以降のことだろう。 八王子権現とは何かというと、これがなかなか難しい。 一般的には牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間に生まれた八人の王子のこととされることが多い。大歳神、大将軍神、大陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄幡神、豹尾神がそれに当たる。 実際にその通りの場合もあるのだろうけど、どうもしっくりこない感じもある。 牛頭天王を信仰する天王信仰が尾張で流行したのはもう少し時代的に後ではなかっただろうかというのがひとつ。 もうひとつは、牛頭天王ではなくその王子を祀った理由がよく分からないことだ。 天王社の牛頭天王と対になる形で八王子を祀ったというなら分かる。この近くにあった天王社というと、中郷の津島神社がある。ただ、中郷は隣村だけど、距離にすると1.5キロほど離れている。これが対の関係だったかどうか。
別の可能性として、法華経信仰から発したものかもしれない。 『法華経序品』に八王子(八つの精神)が出てくる。 「其最後仏。未出家時。有八王子。一名有意。二名善意。三名無量意。四名宝意。五名増意。六名除疑意。七名響意。八名法意。 是八王子」 「威徳自在。各領四天下。是諸王子。聞父出家。得阿耨多羅三藐三菩提。悉捨王位。亦随出家。発大乗意。常修梵行。皆為法師。已於千万仏所。植諸善本」 日月燈明如来(にちがつとうみょうにょらい)が出家する前に八人の王子がいて、これらの王子は徳が高く、悟りを開くために仏の道に入り、誰も王位を継がずに修業に励んで善行をなしたといった意味で、法華経の教えとして語られた。 この八王子精神といったものが信仰対象となり、八王子権現と呼ばれ、神仏習合する中で神社の祭神のようになっていったという例もありそうだ。 法華経というと、野田村の南には法華村があった。ここは村人の多くが法華経の信者だったことから名付けられたとされる。 戦国時代の武将の間でも法華経は信じられており、信長や武田信玄、上杉謙信、加藤清正なども法華経とは関わりが深かったとされる。 この八王子神社の創建が戦国時代あたりだったとすれば、法華経信仰から発して変化していった可能性はあるんじゃないかと思う。
かつて神社は神田を持っていて斎田として稲作をしていたと由緒書きにある。その後、県に買収されてしまったようだ。 町名が野田になる前は八王子町だった時代がある。それはここ八王子神社が由来だ。 拝殿の彫り物が立派で、時代を感じさせる。 本殿は『愛知縣神社名鑑』では神明造とあるけど、写真で確認すると流造に見える。にもかかわらず、外削ぎの千木と鰹木五本がついている。 祭神がアマテラスとスサノオの同居ということで、両神のために融合させたのかと考えるのは考えすぎだろうか。
作成日 2017.10.28(最終更新日 2019.7.3)
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