江戸時代の平田村にあった十所社(十所大明神)、白山社、神明社、天神社、三狐神社(社宮神)、八幡社の6社のうちのひとつ。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「『尾張志』に八幡社平田村にあり弘治元乙卯年(1555)の創建なり、と記す。明治5年、村社に列格した」 『尾張志』(1844年)では確かに「弘治元年乙卯年の創建也」とあるのだけど、『尾張徇行記』(1822年)は「泉増院書上ニ、八幡社内一畝十五歩御除地。此社勧請年紀ハ不知、再建ハ弘治元乙酉年ナリ」と、弘治元年(1555年)は再建としている。 1555年といえば、信長が尾張国統一を目指して戦い、武田信玄と上杉謙信が川中島で戦っていた時代だ。全然関係ないけどノストラダムスが預言書を出版した年でもある。 八幡社の500メートルほど北にあった平田城は、尾張国守護職の斯波氏の一族・平田氏の居城だった。その平田氏は十所社の創建または再建に関わったようだけど、八幡社との関わりは伝わっていない。 個人的な感覚では、1555年は創建ではなく再建のような気がする。創建はもう少し前の室町時代ではないだろうか。鎌倉時代までさかのぼるかどうか。 『寛文村々覚書』(1670年頃)によると、江戸時代前期は平田村の神社は九ノ坪村(北名古屋市)の祢宜、八郎左衞門の持分となっており、前々除とある。いずれも江戸時代以前に建てられた神社と考えてよさそうだ。
平中町(ひらなか-ちょう)は、昭和47年に山田町大字平田の一部より成立した。 平田の中心部に当たることから町名がつけられたという。 以前の住所は大字平田字天神前だったから、このあたりに天神社があったのではないかと思われる。今の平田に天神社はない。八幡社にでも合祀されただろうか。 同じように白山社(平出町)の旧住所は山田町大字平田字神明だったのに今は神明社はない。 天神社と神明社がいつどこに合祀されたのか調べがつかなかった。
神社のすぐ西隣には泉増院(せんぞういん)という曹洞宗の寺がある。 『尾張徇行記』によると、山号は格豊山で、天文5年(1536年)に宗菊が開基、正眼寺十世の周秦が開山したという。 それ以前は真言宗の道場だったとも書いており、寺伝によるともともとは小松寺という真言宗の寺だったようだ。 なので、1536年というのは再建と考えた方がいいかもしれない。 織田家重臣だった清水帯刀たちから援助を受けたのが縁で織田家の菩提寺となり、江戸時代になると尾張藩藩主が代々鷹狩りのときの休憩所に使ったという。 『尾張徇行記』は続けて、寺の一町余り西に喬木山と号する宮がかつてあって、喬木山は泉増寺の山号なので、そこまで境内だったのだろうと書いている。 この喬木山にあった宮というのは、かつての三狐社(社宮神)、今の恵比子神社(平中町)のことを指すのだろうか。 八幡社が最初からこの場所にあったとすれば、八幡社も泉増寺の鎮守社だったのではないだろうか。 泉増寺は江戸時代に水害などで被害を受けて再建もままらず、徐々に規模が縮小していったようだ。 明治24年(1891年)の濃尾地震でも大きな被害を受けたという。
ちょっとよく分からない部分もあるのだけど、戦国時代、もしくはそれ以前からある古い八幡社には違いない。 本社の横に伊勢神宮(神明社)と並んで尾張大國霊神社(国府宮神社)がある。本殿域に尾張大國霊神社(web)の末社があるのは珍しい。
作成日 2018.3.22(最終更新日 2018.12.11)
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