高針高牟神社

古社としての可能性を考えてみる

高針高牟神社

読み方 たかばり-たかむ-じんじゃ
所在地 名古屋市名東区猪高町高針字比島103 地図
創建年 不明
社格等 村社・九等級
祭神

應神天皇(おうじんてんのう)

アクセス

・地下鉄東山線「本郷駅」から徒歩約40分
・地下鉄東山線「星ヶ丘駅」から市バスで高針口停留所下車
・駐車場 あり

webサイト  
オススメ度

 創建年は不明。高針の氏神として創建され、長く八幡社と称していたということで、現在の祭神は應神天皇となっている。
 それが何故か、昭和26年(1951年)に高牟神社と改称している。理由は全然分からないのだけど、昭和26年というなら記録も残っているはずだし、古老に訊けば事情も分かるように思うのだけど、経緯は不明ということになっている。
 高牟神社といえば『延喜式神名帳』に「愛智郡高牟神社」と「春部郡高牟神社」の二社が載っている。
 春部郡の論社は守山区瀬古の高牟神社と春日井市の松原神社で、個人的には松原神社そうではないかと考えている。
 愛智郡高牟神社は千種区にある高牟神社がその可能性が高い(個人的にはこれももしかしたら違うかもしれないと思っている)。
 にもかかわらず、昭和に入って、しかも戦後になって愛智郡高牟神社はうちのことだとどうして主張したのか、その根拠がよく分からない。
 そもそもの話をすれば、高針のこのあたりは山田郡のはずだ。愛智郡と山田郡の郡境はもっと西の千種区にあるとするのが一般的で、名東区は全域が山田郡であった可能性が高い。高針高牟神社に遷座の記録や移転の言い伝えはない。だとすれば、高針高牟神社が「愛智郡高牟神社」である可能性はないということになる。
 しかし、だからといってここが新しい神社とは限らない。想像以上に古い神社かもしれない。
 應神天皇を祀る八幡社になったのは、鎌倉期以降のことだろう。もともと八幡社として創建されたということはないだろう。

 藤森神明社のところで書いたように、名東区は古墳時代中期の5世紀から室町時代にかけて、数多くの窯が作られた土地だった。猿投古窯の中でも最初に作られたのが昭和区、千種区、名東区で、総称して東山古窯と呼んでいる。
 尾張地方最大の前方後円墳である熱田の断夫山古墳に使われた埴輪も東山古窯で焼かれたものと判明している。昭和区伊勝町で見つかった窯(東山111号窯)が現在のところ発見された中で最古のものとされている。日用品としての土器を焼く窯は更に古くからあったと推測される。
 高針もまた、そういった窯があった地区だった。東山古窯群の中では後期の奈良時代以降と考えられている。
 土器を焼くのに必要なのは窯だけではなくて、材料となる土と、燃料となる木と、水もまた不可欠だ。あと、登り窯を作るための斜面も必要となる。高針の地はそれらの条件を満たしていた。
 西を流れる植田川はかつて舟も行き来したというくらいの水量がある川で、たびたび洪水にもなったというから水には事欠かない。森林も豊富で、特に燃料に適した松の木がたくさんあったという。土に関しては当然ながらもっとも大事なもので、東山地区一帯が良質な土に恵まれていたからこそ、ここに多くの窯が作られたのだった。斜面についても、このあたりは丘陵地帯で起伏が激しく、登り窯を作る場所には困らなかったはずだ。
 しかし、高針地区の窯は室町時代以降、急速に衰退してしまう。陶土層が薄くて掘り尽くしてしまったのと、燃料となる木を切り尽くしてしまったのが原因と考えられる。以降、窯は更に東へ、瀬戸、猿投の方に移っていくことになる。

 愛智郡高牟神社は、『尾張国内神名帳』では「高牟久天神」としている。
 タカムとタカムクでは似ているけど違うものだ。もし、本来の名前が高牟久だったとすれば、高い牟久、高いムクノキの意味となる。
 牟久はムクノキ(椋の木)の別称だ。ムクノキは落葉高木で成長が早く、20メートルを超える。日本各地で天然記念物になっている巨木もある。神社でもよく植えられている。
 古来、日本では大木に神聖を見て御神木として祀ってきた。諏訪大社の御柱祭(おんばしらさい)も古代から続く伝統の神事だ。窯で多くの木を切り倒すことと、木を神聖なものとして祀ることは、必ずしも矛盾しない。自然の恵みに感謝するからこそ、木を祀ったということもあったはずだ。
 高い木といえば高木神を連想する。高木神は高御産巣日神(タカミムスビ)の別名とされる。タカミムスビといえば高牟神社の祭神だ。
 つまり、高牟神社というのは高木神を祀ったもので、物部氏の武器庫があった場所に建てられた神社ではないのではないか。高牟の高は美称で牟は鉾(ほこ)のこととする定説を私は信じていない。
 高木神とタカミムスビは本来同じ神のことではないかもしれないとも思う。高木神は文字通り高い木の神ということで、高木を神格化したものではなかっただろうか。神話の神とは別の素朴な信仰だ。
 高針高牟神社が『延喜式』の高牟神社かどうかは別として、この場所に高木神を祀る神社が建てられたとしても不思議なことではないし、むしろ自然なことだったともいえる。
 ただし、先ほども書いたように陶工集団は土を求めて移動していく。土着はしなかったのではないかと考えると、彼らが祀った神だけがここに置いていかれるということはなさそうで、高針高牟神社はもっとあとの時代にこの地に住みついた人たちが氏神を祀った神社と考えた方がいいだろうか。

 高針の地名は、高い土地を開墾(はり)したという意味で名付けられたと考えられている。平らな土地を開墾したのが平針(ひらばり)だ。
 平針には式内・針名神社がある(旧地は天白川左岸の元郷)。そこで祀られているのは尾張氏の祖神・天火明命から数えて十四世の尾治針名根連命(オハリハリナネ)だ。犬山の針綱神社ではその父で十三世の尾綱根命(オツナネ)が祭神となっている。
 尾治針名根には弟彦という兄がいる。この兄もどこかの土地を開拓したはずだけど、どの神社で祀られているかはっきりしない。
 弟彦の息子の金は瀬戸の式内・金神社で祀られている。
 金の弟、岐閉(のきへ)の息子が尾張連草香(くさか)で、その娘の目子媛(めのこひめ)が継体天皇の妃になり、安閑天皇と宣化天皇を産んでいる。
 断夫山古墳は、草香もしくは目子媛の墳墓とする説が有力となっている。
 地理的なこと、古代に古墳に使う土器を作る窯があったこと、古い神社があることなどを考え合わせると、この土地や神社も尾張氏にゆかりがあると考えることができるかもしれない。

 中世、高牟神社の南、済松寺(地図)があるあたりに高針城が築かれた。この地の土豪、加藤信祥(のぶよし/のぶあき)が築城したとされる。
 代々、勘三郎を名乗り、信長の時代は、信長嫡男の信忠に仕えていたという話もある。
 高針城から北800メートルほどのところには、柴田勝家が生まれたとされる下社城(地図)があった。現在、明徳寺になっている。

 神社境内にある敬徳殿(護国社)は、牧野が池を掘った勝野太郎左衛門長政(かつのたろうざえもん よしまさ)を祀っている。
 清和源氏の末裔で、信長に従い桶狭間の戦いで活躍したあと、小牧長久手の戦いでは家康側について認められ、尾張藩の郡奉行から大代官に出世した。
 長政は高針村の困窮を見かねて牧野が池を掘り、水路を引いて稲作を盛んにさせたとう功績によって、高針高牟神社で祀られることになった。
 この事業で私財をなげうち、藩の金を使い込んだことの責任を問われ、最後は切腹したという話も伝わっている。
 牧野が池の畔には功績をたたえる石碑が建っている。
 江戸期には景勝地となっていたようで『尾張名所図会』にも「牧大池(まきのおおいけ)」として記載されている。
「高針村にあり。昔旱魃(かんばつ)に此辺村々用水に乏しく、苗枯渇して苦しみしに、勝野某村長に謀(はか)りて、此池を穿(うが)ち、田に漑(そそ)がしむ。今に其澤恩(たくおん)を報じ、新穀熟すれば必其墓前に供す。實(げ)に功績といふべし。さて此池尤(もっとも)廣大(こうだい)にして、大池の稱(しょう)空(むな)しからず、眺望(ちょうぼう)も亦(また)打開(うちひら)きて月下の秋景(しゅうけい)殊(こと)に賞するにたへたり」
 この他、高針文化財保存庫にはおまんと(馬の塔)で使われる馬具などが保存されている。
 例祭では棒の手が披露奉納される。 

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

高針高牟神社で7プラスアルファの名東区神社巡り完結
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