高牟神社(高針)

古社としての可能性を考えてみる

高針高牟神社

読み方 たかむ-じんじゃ(たかばり)
所在地 名古屋市名東区猪高町高針字比島103 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・九等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス 地下鉄東山線「本郷駅」から徒歩約40分
地下鉄東山線「星ヶ丘駅」から市バスで高針口停留所下車
駐車場 あり(無料)
その他 例祭 10月15日
オススメ度

 創建年は不明。高針村の氏神で、長く八幡社と称していたため、現在の祭神は應神天皇となっている。
 それが何故か、昭和26年(1951年)に高牟神社と改称している。『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡高牟神社はうちだという主張からのようだけど、どういう経緯でそういう話になったのかは分からない。
 現状では千種区今池の高牟神社が愛智郡高牟神社を称している。それを疑っている人間はあまりいないのだけど、津田正生などは古井村(今の千種あたり)はかつて山田郡だっただろうから古井村の八幡(今池高牟神社のこと)は愛知郡高牟神社ではないといっている。私もそれはあり得ると思っている。
 では高針の高牟神社が愛智郡高牟神社なのかといえば、ここは完全に山田郡だっただろうから愛智郡高牟神社ではあり得ないのではないかと考える。
 しかし、だからといってここが新しい神社とは限らない。思っている以上に古い神社かもしれない。
 八幡を称するようになったのは早くても鎌倉時代以降だろうし、それ以前に高針村の集落ができていて氏神を祀っていたとしたら八幡神ではなかったはずだ。

 藤森神明社のところで書いたように、名東区は古墳時代後期から室町時代にかけて、数多くの窯が作られた土地だった。猿投古窯の中でも最初に作られたのが昭和区、千種区、名東区の一帯で、総称して東山古窯と呼んでいる。ここでは朝鮮半島から入ってきた当時最新の技術を使って高級品の須恵器を焼いていた。
 尾張地方最大の前方後円墳である熱田の断夫山古墳(6世紀前半)に使われた埴輪も東山古窯で焼かれたものと判明している。昭和区伊勝町で見つかった窯(東山111号窯)が現在のところ発見された中で最古のものとされている。
 高針もまた、そういった窯があった地区だった。東山古窯群の中では後期の奈良時代以降と考えられている。
 土器を焼くのに必要なのは窯だけではなくて、材料となる土と、燃料となる木と、水もまた不可欠だった。あと、登り窯を作るための斜面も必要で、高針の地はそれらの条件を満たしていた。
 西を流れる植田川はかつて舟も行き来したというくらいの水量がある川で、たびたび洪水にもなったというから水には事欠かない。できた土器を運ぶのにも利用されただろう。材木も豊富で、特に燃料に適した松の木がたくさんあったという。土に関しては当然ながらもっとも大事なもので、東山地区一帯が良質な土に恵まれていたからこそ、ここに多くの窯が作られたのだった。斜面についても、このあたりは丘陵地帯で起伏が激しく、登り窯を作る場所には困らなかったはずだ。
 しかし、高針地区の窯は室町時代以降、急速に衰退してしまう。陶土層が薄くて掘り尽くしてしまったのと、燃料となる木を切り尽くしてしまったのが原因と考えられている。以降、窯は東の瀬戸や猿投の方に移っていった。
 これら陶工集団が神社創建に関わったかどうかがひとつ鍵となる。

 江戸期の書の高針村の神社はそれぞれこうなっている。

『寛文村々覚書』(1670年頃)
「八幡宮 壱社 村中支配 社内三町七反五畝六歩 前々除」

『尾張徇行記』(1822年)
「庄屋書上ニ八幡宮境内一反九畝十二歩御除地、山神祠四区、二ツハ一畝十八歩ツツ、一ツハ一畝五歩、一ツハ一畝十二歩、神明祠境内壱畝十九歩、イツレモ年貢地 府志曰、八幡祠鎮守祠倶在高針村」

『尾張志』(1844年)
「八幡社 山神ノ社四所 神明社 白山社 この七社並高針むらにあり」

 江戸時代前期には八幡宮(今の高牟神社)のみがあり、前々除となっているから、1608年の備前検地以前からあったと考えていい。
 その後、山神社4社と神明、白山が増えたことが分かる。
 白山については『尾張徇行記』に書かれており、それによると蓮教寺の境内にあって、下社村の柴田勝家に仕えた藤八という僧でもあり武将でもある人物が年を取ってから蓮教寺の僧となり、加賀国から白山権現を勧請して祀ったのが始まりとしている。
 いずれにしても高針村の氏神が八幡だったのは間違いない。問題は八幡を祀る以前に別の神を祀っていたかどうか、そうだとしたら創建はいつ頃かということだ。
 高針村の集落がいつできたのかということでもあるのだけど、陶工集団と関係があるのかないのか。陶工集団が去って以降に土着した人々だったのか。高針で窯が作られたのが奈良時代以降としても、その頃に建てられた神社が今の高牟神社であれば、平安時代中期の『延喜式』神名帳に載るだけの古さはあるということになる。
 ただ、『延喜式』神名帳に載せられたのは当時、官社として認められた神社だけで、村人たちが祀っていたような神社は官社とはされていない。官社となるには一定以上の格式のようなものが必要だったはずで、そういった神社を建てられる集団が高針の地にいたかと考えると疑問は大きい。このあたりで大型の古墳などは見つかっていない。

 愛智郡高牟神社は、『尾張國内神名帳』では「高牟久天神」としている。
「タカム」と「タカムク」は似ているけど違うものだ。もし、本来の名前が高牟久だったとすれば、高い牟久、高いムクノキの意味となる。牟久はムクノキ(椋の木)の別称だ。
 ムクノキは落葉高木で成長が早く、高さは20メートルを超える。日本各地で天然記念物になっている巨木もあるくらいで、神社でもよく植えられている。
 古来より日本では木を神の依代と見て、大木を神聖視して祀ってきた歴史がある。諏訪大社(web)の御柱祭(おんばしらさい)も古代から続く伝統の神事だ。
 窯で多くの木を切り倒すことと、木を神聖なものとして祀ることは、必ずしも矛盾しない。自然の恵みに感謝するからこそ、木を祀ったということもあったはずだ。
 高い木といえば高木神を連想する。高木神は高御産巣日神(タカミムスビ)の別名とされる。タカミムスビといえば高牟神社の祭神だ。
 高牟神社というのは高木神を祀ったものかもしれない。高牟神社創建の縁起として語られる物部氏の武器庫があった場所に建てられた神社で、高牟の高は美称で牟は鉾(ほこ)のこととする通説を私は信じていない。
 もし、高木神を祀る神社として高牟神社が建てられたとしたら、タカミムスビを祭神としたのは後付けではないだろうか。神話の神とは別の素朴な木信仰から発した神社が高牟神社かもしれない。
 高針の高牟神社が『延喜式』神名帳の高牟神社かどうかは別として、この場所に高木神を祀る神社が建てられたとしても不思議ではないし、むしろ自然なことだったともいえる。
 ただし、先ほども書いたように陶工集団は土を求めて移動していく。彼らが祀った神だけがここに置いていかれるということはないだろうと考えると、高針高牟神社はもっと後の時代にこの地に住みついた人たちが村の氏神として祀ったと考えた方がいいだろうか。

 高針村の集落や地形については今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると様子が見てとれる。
 集落はわりと大きいのだけど、これは江戸時代に牧野が池が作られて米作りが発展して以降のことだ。もともとはもっと小さな集落だったのではないかと思う。
 高針の地名は、高い土地を開墾(はり)したという意味で名付けられたと考えられている。平らな土地を開墾したのが平針(ひらばり)だ。
 平針には式内・針名神社がある(旧地は天白川左岸の元郷)。そこで祀られているのは尾張氏の祖神・天火明命から数えて十四世の尾治針名根連命(オハリハリナネ)だ。犬山の針綱神社(web)ではその父で十三世の尾綱根命(オツナネ)も一緒に祀られている。
 尾治針名根には弟彦という兄がいる。この兄もどこかの土地を開拓したはずだけど、どの神社で祀られているか知らない。
 弟彦の息子の金は瀬戸の金神社(式内社)で祀られている。
 金の弟、岐閉(のきへ)の息子が尾張連草香(くさか)で、その娘の目子媛(めのこひめ)が継体天皇の妃になり、安閑天皇と宣化天皇を生んでいる。
 断夫山古墳は、草香もしくは目子媛の墳墓とする説が有力となっている。
 高針の地も尾張氏と何らかのゆかりがあった可能性は考えられる。

 中世、高牟神社の南、済松寺(地図)があるあたりに高針城が築かれた。この地の土豪、加藤信祥(のぶよし/のぶあき)が築城したとされる。
 代々、勘三郎を名乗り、信長の時代は、信長嫡男の信忠に仕えていたという話もある。
 高針城から北800メートルほどのところには、柴田勝家が生まれたとされる下社城(地図)があった。現在、明徳寺になっている。

 神社境内にある敬徳殿(護国社)は、牧野が池を掘った勝野太郎左衛門長政(かつのたろうざえもん よしまさ)を祀っている。
 清和源氏の末裔で、信長に従い桶狭間の戦いで活躍した後、小牧長久手の戦いでは家康側について認められ、尾張藩の郡奉行から大代官に出世した人物だ。
 長政は高針村の困窮を見かねて牧野が池を掘り、水路を引いて稲作を盛んにさせた功績によって、高針高牟神社で祀られることになった。
 この事業で私財をなげうち、藩の金を使い込んだことの責任を問われ、最後は切腹したという話も伝わっている。
 牧野が池の畔には功績をたたえる石碑が建っている。
 江戸期には景勝地となっていたようで『尾張名所図会』にも「牧大池(まきのおおいけ)」として絵図が載っている。
「高針村にあり。昔旱魃(かんばつ)に此辺村々用水に乏しく、苗枯渇して苦しみしに、勝野某村長に謀(はか)りて、此池を穿(うが)ち、田に漑(そそ)がしむ。今に其澤恩(たくおん)を報じ、新穀熟すれば必其墓前に供す。實(げ)に功績といふべし。さて此池尤(もっとも)廣大(こうだい)にして、大池の稱(しょう)空(むな)しからず、眺望(ちょうぼう)も亦(また)打開(うちひら)きて月下の秋景(しゅうけい)殊(こと)に賞するにたへたり」

 この他、高針文化財保存庫にはおまんと(馬の塔)で使われる馬具などが保存されている。
 例祭では棒の手が披露奉納される。

 普通に考えれば高針村の八幡が『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社という可能性はごく低い。しかし、可能性が低いというだけで頭から否定してしまえば何も分からない。検討してみてやはり違うだろうとなれば、それは誰かに与えられた答えではなく自分で見つけた結論ということになる。
 しかし、安易に式内社を称するのも考えもので、式内社を名乗ってそうではないとなると神社自体の信用を失いかねない。高針高牟神社の場合は、式内社の論社を主張しつつ八幡社のままの方がよかったのではないかと個人的には思う。今更八幡社に戻すことはないだろうけど。

 

作成日 2017.4.13(最終更新日 2019.1.30)

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