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秋葉社(白鳥3)

隣の中瀬寶蔵地蔵は一見の価値あり

中瀬町秋葉社

読み方 あきば-しゃ(しろとり3)
所在地 名古屋市熱田区白鳥3丁目8 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明(おそらく迦具土神)
アクセス 地下鉄名城線「神宮西駅」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 熱田神宮(web)の西の国道19号線(伏見通)を西に入っていって細い道を少し進んだところにある秋葉社。
 入り口には中瀬町集会所という表札がかかっている。中瀬町はこのあたりのかつての町名で、今は白鳥3丁目に町名変更されている。
 中瀬というのは古い地名のようで、地蔵院所蔵の文正元年(1466年)の文章によると、中瀬刑部左衞門家親という人物から来ているとある。中勢とも表記したようだ。江戸時代に中瀬町になった。

 秋葉社の隣のお堂をのぞくと、思いがけず立派な地蔵像があって驚く。予備知識もなく一目見ただけで、なんかこれすごくないか? と思った。こんな街中の小さなお堂に納まっているような仏像ではないのではないか、と。
 このお堂は寳藏地藏堂と名づけられており、地蔵像は中瀬寶蔵地蔵と呼ばれている。
 昭和33年に書かれた説明書きによると、八劔社(八剣宮)の西にあった熱田社の神宮寺の僧が寶蔵坊を建てて、そこの本尊として祀ったのがこの地蔵像とのことだ。寶蔵坊の創建は1004年というから平安時代中期ということになる。
 慶安年中(1648-1652年)から喜寶院が、元禄年間(1688-1704年)から円定坊が所蔵し、その後、中瀬町が秋葉社とともに祀ってきたという。
 木造檜造で高さは五尺四寸(約162センチ)。言い伝えでは弘法大師の作とされるも、彫刻の特徴からすると鎌倉時代の作ではないかとされる。
 ただし、台座には寛弘年中創建とあり、寛弘年中は1004-1011年だから、弘法大師作ではないとしても平安期の作という可能性もある(弘法大師は774-835年)。
 堂内の地蔵像の隣には弘法大師像も祀られている。

 熱田社の神宮寺の歴史は古く、聖武天皇の時代(701-756年)に創建されたとか、仁明天皇(810-850年)の勅願で創建されたなどといった話が伝わっている。
『熱田神社問答雑録』、『熱田宮旧記』、『神宮寺縁起』なども、仁明天皇の勅願で伝教大師(最澄)・弘法大師(空海)が開基とする。
 伝教・弘法大師と熱田社との関わりは守山区の龍泉寺(web)にも伝わっており、『龍泉寺記』によると、伝教大師が熱田社に参籠しているときに龍神のお告げを受けて多々羅池畔で経文を唱えると池から龍と馬頭観音が現れてこれを本尊として祀ったのが龍泉寺の始まりとしている。
 弘法大師も熱田社に参籠し、熱田社にあった八剣のうちの三剣を龍泉寺に奉納して埋めたという伝説が残っている。
 その後、熱田社の神宮寺は時代の移り変わりで浮き沈みを繰り返し、1597年に神宮寺一帯が火事で焼けたことで衰退した。最盛期は五重塔や宝塔など、多くの伽藍が建っていた様子が絵図に残されている。
 江戸時代には本堂の薬師堂のみとなり、明治の神仏分離令で寺院の要素は排除された。

 白鳥2丁目、3丁目は今も多くの寺院が集まるエリアになっている。
 国道19号線はかつての美濃路で、名古屋城下と熱田を結ぶ道だったため人の往来も多かった。少し南へ行けば東海道の宮宿があり、熱田社の門前町としても賑わった。
 第二次大戦の空襲で大きな被害を受けたものの、戦後に復興した。
 青衾神社金刀比羅社(白鳥)なんかもあり、散策するにも魅力的な地区となっている。熱田神宮を参拝する人でもこちらまで訪れる人は多くないと思うけど、少し北まで足を伸ばせば尾張地方最大の断夫山古墳もある。
 白鳥3秋葉社の隣にある中瀬寶蔵地蔵像は一見の価値がありだ。

 

作成日 2018.10.9(最終更新日 2019.9.18)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

白鳥3秋葉社の見所は隣の中瀬寶蔵地蔵像

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