津島社(大高町寅新田)

込高新田の天王社

大高町寅新田津島社

読み方 つしま-しゃ(おおだかちょう-とらしんでん)
所在地 名古屋市緑区大高町字寅新田125−1 地図
創建年 1684年(江戸時代前期)
旧社格・等級等 無格社・十五等級
祭神 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
 アクセス 名鉄常滑線「名和駅」から徒歩約23分
駐車場 なし
その他 例祭 10月第1日曜日
オススメ度

 現在の緑区の地域は、江戸時代は大きく分けて大高村と鳴海村のふたつに分かれており、どちらも大きな村だった(他には有松村、桶迫間村、相原村など)。
 大高村は尾張藩家老のひとり、志水甲斐守忠継が領して以降、志水家の本拠となった土地だ。
 尾張藩の中で1万石以上の知行だったのは5家あり、志水家の他に、犬山の成瀬家、今尾(岐阜県海津)の竹腰家、駒塚(岐阜県羽島市)の石河家、寺部(豊田市)の渡辺家がそれに当たる。
 鳴海村は愛智郡に、大高村は知多郡に属していた。
 正式名は西大高村で、東大高村(知多郡武豊町)もあった。

 この津島社がある場所は住所でいうと寅新田の端で、江戸時代は込高新田(こみだかしんでん)と呼ばれていた。
 1645年(正保2年)に行われた四つ概(よつならし)という税制改革によって知行地が不足した分を補うためにあらたに新田を作って与えた。こういう新田のことを込高といい、大高の場合は志水甲斐守忠継に与えられた込高がこの場所だったというわけだ。
 ただし、実際に新田開発が行われたのは1680年頃のことで、込高新田と呼ばれるようになったのは宝永年間(1704-1711年)のことという。
 それが志水家に与えられたのは1752年(宝暦2年)と『尾張徇行記』(1822年)は書いている。
 寅新田は1626年に開発された新田だ。この年が寅年だったことから名づけられた。
 一番割、二番割、三番割は、込高新田の番割が地名として残ったものだ。

 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、南北の街道沿いと北を流れる天白川の堤防沿いに家が建ち並んでいたことが分かる。天白川の南と北は水田が広がっている。
 神社があるのは集落の中程だ。
 神社の北を東西に走る道路ができるのは1960年以降のことで、このあたりが住宅地になったのも1970年代に入ってからだった。

 江戸時代は牛頭天王を祀る天王社だっただろう。創建されたのは込高新田が開発された1680年以降ではないかと思う。
 1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』の西大高村の項に天王社はない。
 1844年完成の『尾張志』には「天王社 大高村にあり」とある。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は貞享元年(1684)という。『尾張志』に天王社、大高村にあり、と字寅新田の氏神として崇敬あつく、明治6年10月、据置公許となる」
 1684年というのは記録に残っているのか、言い伝えなのか分からないのだけど、新田が作られた年代と合致しているので信じていいのではないか。

 緑区は鳴海、大高の北にかつての海岸線があり、北西部は年魚市潟(あゆちがた)と呼ばれる干潟だった(満潮は海になり干潮は陸になる地)。込高新田も干拓によって作られた新田だ。
 マピオンは海抜が表示されるので確認してみると、津島社がある場所は海抜マイナス4メートルとなっている。本当だろうか。名古屋南西部は海抜0メートル地帯というところがけっこう多いのだけど、マイナス4メートルはなかなかない。少し北を流れる天白川が海抜0メートルから1メートルということを考えると人の家のことながら心配になる。

 鳥居はなく、本社は瓦屋根のついた木製の塀で囲まれている。かつての天王社だった頃の面影を残す造りだ。南区の秋葉社でよく見るスタイルに近い。
 本社の左右には秋葉社と御嶽社が並ぶ。御嶽社の石碑に覚明霊神と義覚霊神とある。
 覚明霊神は春日井牛山の生まれとされ、木曽御嶽信仰の開祖となった行者だ。義覚霊神は知らない。地元の行者だろうか。
 その他、青峯山のお堂もある。
 庶民による庶民のための神社として江戸時代から現在まで守られてきたのだろう。
 境内地が無駄に広いといったら失礼だけど、この空間はもう少し何か利用価値がありそうだ。松の木が立派で、なかなか風情がある。

 

作成日 2018.4.22(最終更新日 2019.4.2)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

海の底だったところにある込高新田の津島社

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