道ばたにある小さな龍神社。 社はひとつで、昇天家守之大白龍王、樹木主之金光白龍大神、金工光白龍大神という三柱の祭神名が書かれている。 どれも独自の命名で正確な読み方は分からない。 共通しているのは白龍で、家守、樹木、金工という文字からなんとなくイメージはできる。 もともとどこかの家の庭で祀られていたものを外に出した感じがするのだけど違うだろうか。情報がないので詳しいことは分からない。 流造の社はなかなか立派だし、木製の鳥居もあって、狭いながらも境内地も与えられている。
道を一本隔てた西の牛牧(うしまき)は、古代に牛の放牧地(牧草地)があったことからそう呼ばれるようになったという説がある。はっきりしたことは分かっていない。 縄文時代後期から弥生時代、古墳時代、中世、戦国時代にかけての痕跡が見つかっており、牛牧遺跡と名づけられている。 竪穴式住居の跡や、土器、石器だけでなく、土偶や石刀、石棒などが発掘されており、土偶には赤色の顔料が塗られるなど、この地区の独自性が見られる名古屋を代表する縄文遺跡のひとつだ。 地形を見ると、北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地上で、早くから陸地化していたところなので人が生活するのに向いていたのだろう。 守山白山古墳、瓢箪山古墳、小幡茶臼山古墳、小幡長塚古墳など、台地の縁周辺には中型の前方後円墳や円墳が点在している。
神社がある小幡3丁目の一帯は、江戸時代は尾張藩の狩場で、明治に入って日本陸軍が300万坪近い土地を買い取って大砲の射的場を作った。 その後、本格的な演習場として戦中まで使われ、戦後アメリカ進駐軍に接収され、昭和30年代に返還された。 そういった経緯を考えると、この神社がここに建てられたのはそれほど古い時代ではないということになる。早くても昭和30年代以降だろう。 今昔マップで変遷を確認すると、このあたりが住宅地になるのは1960年代以降のことだったことが分かる。
江戸時代の牛牧は牛牧村と呼ばれていた。小幡緑地西園から小幡緑地本園にかけてが村域だった。 現在、このエリアにある神社はこの白龍神社のみで、他に神社はない。 『尾張志』(1844年)など江戸期の書を見ると、神明社 八幡社 白山社 諏訪社 飯縄社があったようだ。それらはどこへ行ってしまったのだろう。どこかの神社に合祀されたとは思うだのけど、追跡できなかった。
飯縄神社(いいづなじんじゃ/web)は長野県長野市富田にある神社で、霊山とされた飯縄山に270年頃、大戸道命(オオトノヂ)を祀ったのが始まりとされる。男神のオオトノヂと女神のオオトノベ(大戸辺命)は神世七代の第5代の神だ。 山岳信仰から始まり、神仏習合して飯縄大明神と呼ばれるようになった。飯縄大明神は超人的な力を持つとされ、特に戦国武将によって信仰された。武田信玄や上杉謙信などもそうで、謙信の兜の前立は飯縄権現像だったことが知られている。後にそれは忍法にもつながっていく。 『尾張志』や『尾張名所図会』などではけっこう出てくるから、江戸時代までは尾張(名古屋)でもメジャーな神だったようだけど、今の名古屋ではほぼ絶滅している。明治の神仏分離令以降に廃れてしまったようだ。 長野では今も飯縄信仰が失われずに続いているだろうか。
小さなお社とはいえ、龍神は土地の守り神であり、強い力を持っているので、味方に付けておくと何かいいことがあるかもしれない。 あるいはうかつに近づかない方がいいだろうか。
作成日 2017.12.19(最終更新日 2019.1.22)
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