道ばたにある小さな龍神社。
社はひとつで、昇天家守之大白龍王、樹木主之金光白龍大神、金工光白龍大神という三柱の祭神名が書かれている。
どれもオリジナルの命名なのだと思う。正確な読み方は分からない。
共通しているのは白龍で、家守、樹木、金工という文字からなんとなくイメージはできる。
このあたりの大木に棲みついていた蛇を祀ったのが始まりといったところだろうか。
神社がある通りはちょっとした松並木になっている。かつてこのあたりは松の木がたくさんあったそうだ。そのへんも関係しているかもしれない。
いつ誰がここに白龍を祀る社を建てたのかは分からない。木製の鳥居もあるからちょっとしたものだ。
小幡(おばた)は、小治田(おはりた)から転じたとされ、江戸時代は小幡村だった。尾幡や小畑とも表記した。
小幡の西の牛牧(うしまき)で縄文時代後期から弥生時代、古墳時代、中世、戦国時代にかけての遺跡が見つかっている。長い期間、人はこの地に暮らしていたようだ。
地形的に見ると、北の庄内川と南の矢田川に挟まれた台地上で、早くから陸地化していたところなので人が生活するのに向いていたのだろう。
小幡白山古墳や小幡茶臼山古墳など、台地の縁周辺には中型の前方後円墳などが点在している。
縄文時代の遺跡としては竪穴式住居の跡や、土器、石器だけでなく、土偶や石刀、石棒などが発掘されており、土偶には赤色の顔料が塗られるなど、この地区の独自性が見られる。
縄文から戦国時代までの長期にわたって人が暮らしていたのなら古い神社があってもおかしくない。むしろない方が不自然だ。
川村町にある川島神社(地図)は「延喜式神名帳」に載る平安時代初期の807年に創建されとされる神社だ。ただし、これはやや疑わしいところがある。
延喜式内社ではないものの、小幡白山神社(地図)はかなり古いかもしれない。飛鳥時代前期の600年頃創建されたともいわれている。
小幡一帯は白山神社がたくさんあるところで、これは古墳と何か関係が深そうだ。
生玉稲荷神社(地図)は鎌倉時代前期の1200年頃の創建とされるので、これもそこそこ古い。
『尾張志』は小幡白山神社についてこう書いている。
「三社ノ社 小幡むらにありて白山愛宕八幡を合せ祭る 府志に疑らくは神名式に載たる多奈波太ノ神社ならむ天棚機媛命を祭るといへり今社伝を失ふ故に知れさるよし書るは誤也その多奈波太神社は田幡村にあり當村に松林多し村民小社を建て鎮守とし皆山神と号す■て六ヶ所にありむかし小治田ノ連等が住し里なれは其祖神を祭りし古社なるへし」
小幡白山神社が「延喜式神名帳」に載る山田郡多奈波太神社かどうかということを書いているのだけど、はっきりしたことは分からないようだ。
現在、多奈波太神社(地図)は北区にあるのがそれということになっている。
ただ、小幡白山社の創建が飛鳥時代だというならその可能性もなくはないか。
その他、小幡村にあったのは、
「愛宕社 神明社 稲荷社 諏訪社 大田神ノ社」
とのことだ。
諏訪社は見当たらないのと、大田神ノ社というのが気になる。他では見たことがないけどどういう神を祀る神社だったのだろう。
牛牧村は、「神明社 八幡社 白山社 諏訪社 飯縄社」と書いている。
これらの神社は廃社になったか、どこかに合祀されたかしたのだろう。
飯縄神社(いいづなじんじゃ)は長野県長野市富田にある神社で、江戸期の『尾張志』や『尾張名所図会』などではけっこう出てくるのに、今の名古屋ではほぼ絶滅している。
霊山とされる飯縄山(いいづなやま)の山岳信仰から始まったもので、飯縄大明神は超人的な力を持つとされ、特に戦国武将によって信仰された。武田信玄や上杉謙信などもそうで、謙信の兜の前立は飯縄権現像だったことが知られている。
のちにそれは忍法にもつながっていく。
江戸時代にはその名頃がまだあったのだろう。明治以降は廃れてしまったようだけど、地元の長野ではまだ根強い信仰が残っているだろうか。
小さなお社とはいえ、白龍神は地の守り神であり、強い力を持っているので、味方に付けておくと何かいいことがあるかもしれない。
あるいはうかつに近づかない方がいいだろうか。
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