御嶽社(枇杷島)

枇杷島村は覚明霊神ゆかりの地

枇杷島御嶽社

読み方 おんたけ-しゃ(びわじま)
所在地 名古屋市西区枇杷島4丁目6 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 不明
アクセス 名鉄名古屋本線「東枇杷島駅」から徒歩約14分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度

 民家の庭にある御嶽ワールド。御嶽大神を祀っているであろう小さな社が小山の上にあり、狛犬がそれを守り、周囲には霊神石碑や石仏が林立している。そこに草木が生い茂って、ひとつのお山と化している。ミニ御嶽山といった風情だ。
 木像二階建ての母屋と一階建ての建物が合体している。おそらく一般家屋には違いないのだけど、これだけの石仏などを個人的な信仰心だけで集めるのは大変だろうから、御嶽教の講社か何かを兼ねているのかもしれない。入り口にはしっかりした鳥居も建っている。

 枇杷島は木曽御嶽信仰の開祖となった覚明霊神ゆかりの地で、古くから御嶽信仰、御嶽教が盛んな土地だったようだ。
 江戸時代には美濃路の庄内川に架かる枇杷島橋を渡った向こうの下小田井に青物市場があり、庄内川には中島と呼ばれる中州があった。美濃路の枇杷島側も人の往来が多く、問屋街があり、そこの人々が御嶽教の講社を作っていたそうだ。それは江戸時代後期から明治にかけてのことだろう。

 御嶽社の南200メートルほどのところに清音寺(地図)というお寺がある。八幡社の西隣だ。
 清音寺については嶋川稲荷社のページに書いた。
 平安末、平清盛によって尾張の井戸田村に流された太政大臣・藤原師長は、村長の娘と通じ、許されて都に帰ることになったとき白菊の琵琶を与えた。藤原師長は琵琶の名手として知られていた。娘は別れを嘆き、もらった琵琶を抱いたまま入水して亡くなり、以来枇杷島と呼ばれるようになったというお話しだ。その娘を弔うために建てられたのが清音寺だという。
 半分事実で半分作り話なんだろうけど、清音寺の名称は娘の法名、清音院松月麗照大姉から来ているともいう。
 はじめ天台宗で、後に曹洞宗に改宗した。

 この清音寺の前に大きな石碑が建っており、「御嶽開山 覚明行者剃髪道場舊跡」と彫られている。
 覚明霊神は江戸時代中期の1719年(1718年とも)、尾張国春日井郡牛山村に生まれた。
 父親は丹羽清兵衛(清左衛門とも)、母親は千代で、幼名を源助といった。
 家が貧しかったため8歳のとき新川土器野村の農家の養子になったとされる(土器野の中河原を出生地とする説もある)。
 枇杷島の医師の箱持ちをしていたとか、土器野新田の阿弥陀堂の前の借家に住んでお梅という女性と結婚して餅屋をやっていたとか、八百屋だったとか、魚の行商人をしていたなどという話があるも、前半生ははっきりしない。
 阿弥陀堂の僧の死に関わったのではないかという噂が立ち、お梅を置いて村を飛び出したという話もどこまで本当か分からない。
 出家して僧になり、1741年に五条川近くの弘法堂の住職になったという話がある。それはまだ覚明と称する前のことであり、枇杷島の清音寺の住職だった法周に入門して道周と名乗ったとされる。
 しかし、1718年か1719年生まれで1741年に住職になったとなれば、出家したのは20歳になるかならないかということになり、商売をやっていたといった話はどうなんだろうということになる。
 別の話として30歳のときに清音寺で得度を受けて4年間修業したというのもある。
 1752年、無実の罪を着せられて巡拝の旅に出たという。
 その後もたびたび各地に巡拝を行い、1766年に四国八十八ヶ所霊場の金剛福寺で白川権現が現れ御嶽山を開くようにと命じられたという。
 覚明と名乗ったのはこのとき以降のことだ。
 翌1767年にまずは恵那山を開いた。
 その後、1782年から御嶽山の開山を目指すも実現までにはたいへんな苦労をすることになる。
 そこに至るまでの十数年間は木曽あたりで修業をしたり、祈祷をしたり、村のために働いたりといろいろしつつ信者を増やしていったようだ。
 それまで御嶽山は100日の厳しい精進潔斎をしないと登れないという決まりになっていた。それを軽潔斎で登れるようにと黒沢御嶽神社の武居家に許可を求めるも即却下。村の庄屋に頼むもらちが開かず途方に暮れることになる。
 覚明自身が100日精進して登ることはできても後に続く信者が登れなければ本当に開いたことにならない。
 最終的には許可が下りないまま独断で御嶽に登ったのは1785年のことだった。老齢になっていた覚明はもう時間がないと思ったのだろう。
 当然、それはすぐに知れることになり、覚明は代官所から21日間の謹慎を命じられる。
 それでもめげなかった覚明は翌1786年にも信者を連れて御嶽山登拝を強行し、登山道の整備を始めた。
 しかし、その翌年、覚明は御嶽山の二の池湖畔にて入定。このとき69歳ということになるだろうか。
 霊神というのは死後に贈られる呼び名で、神として祀られることになる。生前は行者と呼ばれていた。現在の御嶽教でも死後に霊神と呼ばれるのは一部に限られる。
 この後、登山道が整備され、村の庄屋などの願いもあり、御嶽山は軽潔斎で登れるようになりった。秩父出身の普寛行者が王滝口を開いたこともあり、御嶽教は尾張や美濃を中心に江戸間で広がって講社ができ、御嶽山は大衆化されることになる。他の霊山と比べて早い段階で女人禁制も解かれている。

 神社境内に「御嶽開山 覚明霊神百五十年祭(?)記念」と刻まれた石碑があり、横には「昭和五年十一月」と彫られているように見える。
 御嶽山の開山を1785年とすると150年を足すと1935年になり、これは昭和10年だ。昭和5年の百五十年は何からの150年なんだろう。
 行者碑や霊神碑には、大先達として、覚こま姫童女、一覚行者、覚由霊神、開清行者といった名前が見られる。奥まったところにもだいぶ古びた霊神碑がたくさん建っている。
 これらは今まで回った御嶽社では見かけなかった名前に思う。御嶽講社はそれぞれなかば独立しているのでこういった霊神の名前に共通項が少ない。
 石仏は役行者なのか観音像なのか、判別できない。

 そもそもここは御嶽教信者でもない一般人が勝手に入っていって参拝していいところなろうかという素朴で根本的な疑問を抱きつつ後にすることになった。
 とりあえず地図には載っていないし、賽銭箱も置いてなかったと思う。
 神社サイトのためと思わなければ私も入れなかったと思う。神社サイトをやっているということが入社許可証代わりになるかどうかは分からない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

覚明霊神ゆかりの枇杷島にある御嶽社

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