神社の由緒によると創建は寛政九年(1797年)という。 しかし、『愛知縣神社名鑑』は、それは再建としている。内容はこうだ。 「創建は明かではないが、伝えに寛政年中(1789-1800)再建という。土地の産土神として崇敬あつく、明治10年、据置公許となる。大正6年5月21日、会計指定社となる。昭和20年1月10日、村社格の神社と認められた」 会計指定社というのは初めて見る言葉だ。どういう状況だったのかちょっと分からない。 神社由緒では、明治6年(1873年)の布達によっていったん廃社となり、その後氏子の希望によって明治11年(1878年)に再興したとしている。 会計指定社と廃社がイコールなのかそうではないのか、判断がつかない。 いずれにしても明治にいったん廃社かそれに近い状態になり、復活したという経緯があったようだ。 戦時中の昭和20年に村社格と認められたというのはどういう状況だったのだろう。 『愛知縣神社名鑑』も神社の由緒も、ちょっと分からない部分がある。
金刀比羅の総本社はよく知られているように、四国の香川県(仲多度郡琴平町)にある金刀比羅宮(web)だ。象頭山の中腹に鎮座しているため、長い階段を登っていかなければいけないのもひとつの名物のようになっている。 もともと象頭山にいた大物主(オオモノヌシ)を祀った琴平神社が始まりとする説と、真言宗の松尾寺にあった鎮守神の金毘羅が始まりという説がある。 どちらにしても早い段階から神仏習合した神だった。 金毘羅はインドのガンジス川の神、クンピーラから来ているとされる。 水にまつわる神ということで、船乗りや海に関わる人たちによって信仰された。 地方神だった金比羅が全国区になるのは江戸時代中期以降のことで、江戸時代後期には全国規模のこんぴら参りが流行した。 そういった流れを考えると、この金刀比羅社の創建が寛政九年(1797年)であってもおかしくないのだけど、再建ということであれば創建は1700年代中頃か前期あたりではないだろうか。
今昔マップの明治期(1888-1898年)のものを見ると、神社のあるあたりの東で集落が途絶えて、ここから西は一面田畑だったことが分かる。 それが1920年(大正7年)になると、それまで田畑だったところが突然住宅地になっている。30年の間に激変していて驚く。 これは明治37年(1904年)に日本陶器合名会社(後のノリタケカンパニー web)の工場が建ったことが大いに関係していると思われる。それに伴ってこのあたり一帯が一気に住宅地になったのだろう。 1932年(昭和7年)になると、田畑などはほぼ姿を消してしまっている。 金刀比羅社がある場所に鳥居マークが現れるのは1976年(昭和51年)の地図からなのだけど、神社自体はもっと古くからここにあったはずだ。
菊井の地名は江戸時代に創建された菊水寺(地図)が関係している。 楠木正成・正行の家臣が持っていたものとされる聖観音菩薩像を本尊とする臨済宗の寺で、境内の井戸を菊水の井戸、菊の井などと呼んでいたことから菊井の名がついたという。 宝暦年間(1751-1764)、京都の扇子職人、井上勘造が名古屋城下のこのあたりに移り住んで技術を教えたことから名古屋は京都と並ぶ扇子の二大産地になった。今でも名古屋扇子を作る店があり、紙屋も多い。
本社の左右にある社は、春日社が文政12年(1829年)に上畠から、八幡社が慶応3年(1867年)に佛法寺からそれぞれ移したものだ。 拝殿前にある社では菊井龍神大神、大国主大神、恵比須大神が祀られている。もともと屋根神様として他で祀られていたものをここに移してきた。 稲荷社は菊井稲荷社と額にある。 十一面観音堂には聖観音菩薩を祀っている。 文政年間(1818-1831年)に悪疫が流行したとき、境内に石碑一基を設けて悪病除けをしたのが始まりで、文久2年(1862年)に清涼寺の泰隣和尚が参道にお堂を建てて本尊と33体の聖観音菩薩像を安置した。里の人たちは田中の観音と呼んでいたという。 昭和20年の空襲でお堂は焼失。戦後、土を掘り返したら一部が出てきたので、昭和26年にお堂を建て直したという。 地蔵堂もあり、中には三体の像が安置されている。
祭神を大国主としたのは明治以降のことなのだろうけど、どうして本家と同じ大物主としなかったのだろう。大国主と大物主は同じ神ともいうけど、やはり厳密には別と考えるべきで、大物主とせず大国主とした理由が何かあったのかどうか。
ここは絵になる神社だ。風景としても魅力的だし、空気も整っている。この神社好きだと思った。海の神なのに山神社のような雰囲気を感じた。
作成日 2018.6.5(最終更新日 2018.12.17)
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