神明社(南押切)

ちょっと変わってて面白い神社

押切神明社

読み方 しんめい-しゃ(みなみおしきり)
所在地 名古屋市西区則武新町1丁目11 地図
創建年 不明
社格等 指定村社・十二等級 
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
豊受大神(とようけおおかみ)
 アクセス 地下鉄鶴舞線「浅間町駅」から徒歩約17分
駐車場 なし
webサイト  
オススメ度 **

 則武新町にありながら、かつての町名である南押切の神明社として通っている。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「中御門天皇の享保八癸卯年(1723)秋九月、尾張藩志水甲斐守の御獵地押切村字台所神明田一反三畝の所に願主杉崎賀豊、瑞夢をみて二柱の神を勧請し武門の昌栄を祈願する。その後産土神として崇敬あつく明治6年、据置公許となり明治14年1月14日、村社に列格し昭和6年7月21日、供進指定社となる」

 尾張藩志水甲斐守というのは尾張徳川家の家老である志水家のことなのだけど、「御獵地」というのがちょっとよく分からない。狩猟場を南押切に持っていたということだろうか。
 願主の杉崎賀豊についても調べがつかなかった。武門の昌栄を祈願してというから尾張藩士だったと考えていいだろうか。
 その杉崎賀豊が夢を見てアマテラスとトヨウケを祀ったのが南押切の神明社の始まりという。
『尾張志』には「神明社 おしきりむらにあり」とだけあり、『尾張徇行記』では「府志曰、白山祠神明祠倶在押切村」としている。いずれも簡潔な記載のみで、詳しい説明はない。

 則武新町(のりたけしんまち)は、昭和56年に本塚町、菊井町と則武町はじめ12町の各一部より成立した。
 則武は、かつてこの辺り一帯に則武氏の田んぼがあり、則武荘と呼ばれていたことから来ている。
 明治9年(1876年)に大秋村・中島村・中野高畑村が合併して則武村となり、明治22年(1889年)に栄村(さこむら)と合併して鷹場村になった。
 日本を代表する陶磁器メーカーのノリタケ(web)は、則武に会社を建てたことから会社名にしている。創業者の名前でもなく、ノリタケがあるから則武町になったわけではない。
 創業者の森村市左衛門は、幕末の動乱期に御用商人をしていた。しかし、鎖国が解かれたことから海外に目を向けるようになり、海外貿易をすることを決め貿易会社を作った。後に陶磁器の将来性に目を付け、磁器メーカーへと転身した。
 古い時代のオールドノリタケは特に評価が高く、国内外で高値で取引されている。
 神社の少し南にノリタケの森(web)という施設があり、憩いの場所として名古屋市民によく利用されている。

 押切(おしきり)の由来についてははっきりしない。地名としては関東に多く、堤防や堰が決壊した土地に名づけられることがあるので、そこから来ている可能性はある。
 このあたりに現在川はないものの、かつては近くを笈瀬川(おいせがわ)が流れていた。西区の児玉町あたりから押切、ノリタケの森の東、名古屋駅西の椿神明社前と南下し、中川に合流していた。中川は運河になる前は自然河川だった。
 この笈瀬川にまつわる地名かもしれない。
 それ以外の説としては、古くは
鴛鴦喜里村(おしきりむら)とも表記ことから鴛鴦(えんおう)の里という意味で名づけられたのではないかというものがある。鴛鴦はオシドリのことで、鴛はオス、鴦はメスを意味する。
 鴛鴦が喜ぶ里というのは地名としてはきれいすぎる気もするけど、かつてはこのあたりにも冬になればオシドリが渡ってきていたはずだ。

 鳥居には八幡社でもないのに二羽の鳩の像が置かれている。ちょっとした遊び心というか装飾というか神の使いのつもりかもしれない。他では見たことがない珍しいものだ。
 舞殿型拝殿には何故か「社月豊」という額がかかっている。右から読んで豊月社なのだろうけど、意味が分からない。他の神社から額だけもらってくることはないだろうし、拝殿自体を移した可能性はあるだろうか。
 もしくは、豊月社と称していた時代があったのか。
 本社の脇には陶製の狛犬が置かれている。少し青色が残っているから、もともとは鮮やかな青色をしていたのだろう。

 少し変わってるし、歴史的にはよく分からない神社ではあるけれど、面白い神社ではある。ここけっこう好きだなと思った。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

ユニークで実はちょっとすごいかもしれない南押切神明社

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