名古屋駅前から少し離れて路地に入ると、わずかながらに昔の風情の残る町並みがあり、小さな神社がいくつかあることを知る。名駅5丁目の路地にあるこの天王社もそういった神社のひとつだ。
裏手には花車神明社(地図)の山車、紅葉狩車の蔵があり、その守り神か何かだと思ったら違って、もともと屋根神様だったのを降ろしてここに祀ったのだそうだ。
屋根神様ということで祭神は熱田・津島・秋葉のセットになっている。それでも一応、天王社ということになっているようだ。
名駅5丁目のこのあたりは堀川の西で、名古屋城下の西の外れに当たる。
名古屋城下の町割りは、三の丸の南を中心に、東に武家屋敷などを集めていたため、当初は南と東へ広がっていった。その後、城下に人が増えたため、堀川を越えて西側にも民家や商家が建ち並ぶようになった。
名古屋駅前は江戸時代に廣井村と呼ばれたところで、廣井村の氏神は花車神明社だった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、明治に入ってもまだ名古屋城下の西は集落が点在して、それ以外は田畑が広がっていた様子が見てとれる。鉄道が通って名古屋駅ができるまでそのあたりは芦原が広がる湿地帯だった。
堀川の一本西の道が美濃路で、その一本西が四間道(しけみち)と呼ばれる道だった。ここに商家や蔵が建ち並んでいた。
民家密宗地帯ということで、尾張藩は城下に火除けの秋葉権現と疫病除けの牛頭天王を祀ることを奨励した。屋根神様として熱田・秋葉・天王を祀ったのはその流れを汲んだものといえる。屋根神様が流行ったのは明治から昭和初期にかけてのことだ。
この天王社がいつここに建てられたのかは分からない。ただ、鳥居裏に昭和九年とあるので、このときここに移された可能性が高そうだ。
石を組んだ高台に鎮座して、境内には大小の木々もあり、この狭い一角だけが一種独特の雰囲気を醸している。何かがここに棲んでいて、人知れず街を見守っている感じだ。表通りを車で通りすぎるだけではそのことに気づかない。
毎年10月に花車神明社祭が行われる。
名古屋市指定有形民俗文化財の唐子車山車(旧内屋敷町)、二福神車山車(旧下花車町)、紅葉狩車山車(旧上花車町と小鳥町)の3輌の山車が名駅5丁目界隈を練り歩く。
江戸時代、東照宮祭、若宮祭、三の丸天王社祭が名古屋三大祭りと呼ばれた。天王社祭のときに大型の2輌の車楽(だんじり)に対する献灯車として作られたのがこれらの山車で、明治になって天王社祭が衰退すると献灯車としての役割を失い、それぞれの神社の例祭で出されるようになった。
かつては多くあった山車も売却されたり空襲で焼失したりして数を減らしてしまった。
紅葉狩車は文政年間(1818-1830年)に作られたもので、からくりは能の「紅葉狩」を演じる。更科姫が鬼女に変身して平維茂を襲うというものだ。
蔵から出された紅葉狩車はまず天王社でお祓いを受けてから町内を一周して、屋根神様の前でからくりを奉納する。土曜の夜に花車神明社に3輌が揃ってからくり奉納が行われ、日曜日はまたそれぞれの町内を回る。
都会の中でもこうした小さな神社が守られ、伝統の祭りが世代を超えて伝えられている。この先担い手はますます少なくなっていくだろうけど、思いがあればつながっていくものだと信じたい。
作成日 2018.7.20(最終更新日 2019.5.14)
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