近鉄八田駅南の住宅地にある秋葉社。 このあたりは江戸時代の八田村だったところだ。 現在の八田町は「はった」だけど、江戸時代の八田村は「はつた」または「はつだ」といっていた。 八田の地名由来について津田正生は『尾張國地名考』の中で「八は仮借にて正字治田(はりた)村の言便なるべし」と書いている。 別の説として、湿地帯を意味する「やだ」に八田の字を当てたというものもある。
八田村は平安時代中期の延喜年間(901-923年)に開墾されて伊勢の神宮(web)の所領となったところで、神社は神明社が一社あった。現在中村区並木にある神明社(八田)(地図)がそれに当たる。 『寛文村々覚書』(1670年頃)、『尾張徇行記』(1822年)、『尾張志』(1844年)、それぞれに神明社が一社載るだけで他の神社については書かれていない。秋葉社についても江戸時代の書からは手がかりが得られない。 神社本庁に登録していないため、『愛知縣神社名鑑』にも出ていない。なので、ほとんど何も分からない。元からここにあったのか、後から移されてきたのかも判断がつかない。 道が少し鋭角に曲がってできた空きスペースを上手く利用して神社は建てられている。神社をよけて道を通したというわけでもなさそうだけどどうだろう。
八田村ゆかりの人物に、鬼頭景義(きとうかげよし)がいる。八田村の住人で、尾張の新田開発に尽力した人物だ。 この地に逃れてきた源為朝の子孫とされる鬼頭家の話は尾頭橋などに残されていて、まったくの作り話とも思えない。為朝と鬼頭の話は中区の闇之森八幡社のところに書いた。 鬼頭景義は江戸時代前期の1631年から足かけ27年にわたり、中島新田や熱田新田、中野内新田・外新田、東・西福田新田などの開発にたずさわった。新田開発は遠く美濃国にまで及び、2万3千石も増やしたといわれている。その功績により、尾張藩主から苗字帯刀を許されている。 晩年は仏門に入り空雲を名乗り、中島新田に道龍山空雲寺(地図)を開いた(創建当初は善源寺)。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、秋葉社があるのは八田村集落の北端の道沿いに当たることが分かる。この時期すでにここにあったとしてもおかしくない場所だ。ただし、今昔マップ上に秋葉社を示す鳥居マークが初めて現れるのは1976-1980年の地図だ。この頃までにすでに区画整理されているものの、まだ家が多く建ち並ぶといった様子ではない。周辺にはまだ田んぼも残っている。 八田村が大きく変わったのは、日本毛織の工場が建てられて以降のことだ。現在、三菱重工業の工場がある場所で、大正末から昭和初期にかけて作られた。 工場のための引き込み線が敷かれ、そのための関西本線八田駅ができた。それは八田本町交差点がある通りで、駅は今より500メートルほど西だった。 昭和13年(1938年)に関西急行電鉄が開通し、関急八田駅が少し東に作られたことで八田の中心は現在の八田本町や花池町に移った。八田村集落のあった八田町は長らく開発が遅れることになる。 地下鉄東山線の名古屋-栄町間が開業したのが昭和32年(1957年)で、これが名古屋の地下鉄第一号だった。 中村公園駅から高畑駅まで延長したのが昭和57年(1982年)のことだ。これ以降、八田町の方も発展していく。 更に平成14年(2002年)に八田駅と近鉄八田駅は名古屋駅寄りの今の場所に移り、地下鉄線との乗り換えが便利になった。 八田総合駅と称しつつ駅間はやや離れているものの、JRの普通でも名古屋駅まで5分という立地を考えると、八田は今後、エキチカの住宅地として発展性がある。鉄道が3社から選べるというのは強みだ。あおなみ線の小本駅も遠くないし、鉄道がすべて止まったとしても歩いて1時間で帰ってこられる。海抜1メートルというのが不安材料ではあるか。
結局、秋葉社については何も分からなかった。古くから八田に住んでいる方なら何か知っているだろうか。
作成日 2017.10.16(最終更新日 2019.6.25)
|