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神明社(藤成)

ここはそんなに単純な神明社ではない

藤成神明社

読み方 しんめい-しゃ(ふじなり)
所在地 名古屋市昭和区塩付通6丁目51 地図
創建年 1394(室町時代中期)
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス 地下鉄桜通線「桜山駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他 例祭 10月17日
オススメ度

 住所でいうと塩付通(しおつけとおり)6丁目なのだけど、かつての藤成新田だったところということで、藤成神明社と呼ばれている。
 塩付通の地名は、かつてここを通っていた塩付街道(しおつけかいどう)から来ている。南区星﨑あたりの海岸では塩作りが盛んで、そこで積まれた塩を運ぶために整備された道だ。現在の昭和区を縦断し、飯田街道と合流しつつ更に北の千種区古出来まで行って荷物をいったん集め、そこから信州など各地に運ばれていった。塩付街道が整備されたのは江戸時代の少し前、1596年頃のこととされる。
 藤成(ふじなり)の地名は、藤成新田を開発した成瀬正虎が由来となっている。尾張藩附家老で犬山城主だった成瀬正虎は隼人正に任ぜられ、このあたりを開発することになった。成瀬家は藤原家の一族ということで、藤原の「藤」と成瀬の「成」をあわせて藤成新田と名付けた。
 少し東にある隼人池(地図)は、この新田に水を引くために作られた溜め池で、成瀬隼人正から池の名前が取られている。
 藤成新田が成立した後は、石仏村の支村になった。

 藤成新田の開発が始まったのは1646年頃のことという。その年にまず隼人池を作っている。
 藤成の東を流れる山崎川(かつての川名川)に檀渓(だんけい)と呼ばれる場所があり、江戸時代は渓谷風景の名所だった。名前の元になったのが白林寺(web)の住職だった檀渓和尚で、1647年に五軒家に庵を建てて移り住んだことから檀渓の地名になった。
 藤成新田は1659年に白林寺の寺領になっている。
 藤成新田開発が始まる前の1632年に、五軒家の神明社地図)が創建されている。五軒家神明社が現在地に移されたのは明治35年で、最初は神明山というところに建てられたらしい。それがどこなのかちょっと分からなかったのだけど、1632年ということは藤成新田が開発される前のことだ。五軒家の地名が示すように、当時は五軒の家があったことが地名の由来となっている。
 藤成神明社は藤成新田の氏神として創建されたという話があるのだけど、『愛知縣神社名鑑』は違うことを書いている。
「社伝に応永元年甲戌年(1394)荒田町に創建すという。その後文政四辛巳年(1821)7月、現在の社地に遷座する当時の棟札に”今度御社地替え儀御上え願上候処相済今般村の中新地え奉遷なお幾万々年も村中安穏に守幸給と申す”とあり社殿を修復する。明和四年(1767)2月、田畑百穀成就を祈願、天命八年(1788)の変災には若い者四人で石造の常夜灯を献進するなど昔から氏子の崇敬殊に深く(後略)」
 創建されたのは室町時代中期の1394年で、それは荒田町だったという。荒田町は塩付通の東南で、山崎川(川名川)のそばだ。それが本当だとすると、藤成新田とは関係がないということになる。室町中期ということなら、アマテラスを祀る神明社ではなかった可能性もある。

 藤成、石仏のあたりは、御器所台上に当たり、古くから人が暮らす土地だった。古代において西の熱田台地と東の御器所・瑞穂・笠寺台地は干潟の海で隔てられていた。鶴舞あたりまで海が入り込んでいて、上前津や吹上などの地名にもそれが表れている。長戸町では縄文時代中期の遺跡も見つかっている。
 かつての塩付街道は藤成神明社の一本西の細い通りなのだけど、この道も台地の上に作られた道だった。
 今の新堀川は江戸時代までは精進川と呼ばれる自然河川で、川の周囲は湿地帯や干潟が広がっていた。
 こういった名古屋の台地上には縁に沿って古墳も築かれた。鶴舞公園東に残る八幡山古墳(地図)もそのひとつだ。
 周囲には式内社とされる川原神社地図)や、御器所八幡宮地図)などの古い神社もある。
 藤成神明社は川原神社から勧請して建てたという話もある。現在の川原神社の祭神は、埴山姫神(はにやまひめのかみ)、罔象女神(みつはのめのかみ)、日神(ひのかみ)となっているのだけど、川原神社も歴史が複雑で理解するのが難しい神社なので、それが本当かどうか判断がつかない。のちに神明社となったことを思えば、日神を勧請して祀っていたのかもしれない。それは具体的な神ではなく、いわゆる太陽神のようなものだっただろう。

 1670年に成立した『寛文村々覚書』の藤成新田の項を見るとこうなっている。
「社 弐ヶ所 内 神明 山神 社内 前々除 所々支配」
 この神明が藤成神明社のことだろう。山神は藤成か五軒家のどちらかの神明社に移されたのではないかと思う。
 前々除ということは、1608年の備前検地のときにすでに除地だったということだから、創建は江戸時代以前にさかのぼる。
 所々支配というのは初めて見る言葉だ。『寛文村々覚書』は1655-1658年にかけて行われた調査を元にしていて、藤成新田が白林寺の寺領になったのが1659年ということだから、そのあたりの利権が入り組んでいたということかもしれない。
『尾張徇行記』(1822年)はこう書いている。
「熱田社家磯部越中書上帳ニ、神明社内四畝廿歩御除地、末社八剱八百万神月読宮山神社内一畝三歩御除地、是ハ何レモ寛永年中ヨリ鎮座ノ由申伝ヘリ」
 末社に八劔社があって熱田社家の磯部家の記録にあるということは、熱田社も関わってきていたということだ。八百万神や月読宮もあったというのも興味深い。それらの境内社は今も残っている。

 現在、末社を集めた中規模の社殿があって、その顔ぶれはこうなっている。
山神社(大山祇命)
八劔社(豊受大神)
八百万社(八百万神)
龍神社(龗神)
津島社(須佐之男命)
鬼王神社(月読之命)
秋葉社(火之迦具土神)
月讀社(月讀之命)
天神社(菅原道真公)

 一番気になるのは鬼王神社だ。祭神は月読之命(ツクヨミ)となっているのだけど、月讀社もあって、そこでも月讀之命を祀っている。何故、月読が鬼王なのか?
 かつて熊野にあった鬼王権現から来ているのだろうか。今の熊野に鬼王権現は現存しておらず、東京の新宿にある稲荷鬼王神社(いなりきおうじんじゃ)が唯一鬼王の名前を持つ神社とされている。ここの祭神が月夜見命、大物主命、天手力男命だから、月読を祀る鬼王神社はやはり熊野の鬼王権現を勧請したものと考えられそうだ。病気平癒に効くとされた。
 八百万社の八百万神とか、龗神(おかみのかみ)を祀る龍神社も気になるし、八劔社の祭神が豊受大神になっているのも引っかかる。
 神社に隣接して弘法堂と観音堂があり、神仏習合だけでない様々な信仰がこの神社に集まって混在しているように思える。
 祝詞殿もあるというのだけど、どれがそうなのか分からなかった。

 この地に遷座したのが江戸時代後期の1821年。
 第二次大戦の空襲で焼けている。
『愛知縣神社名鑑』はこんなことも書いている。
「昭和20年5月17日空襲により社殿炎上せしも直ちに復興昭和41年社殿を改築し現在基本財産二千有余万円を積立て崇敬の念益々厚い」
 いつの時代の情報かは知らないけど、この神社は2千万円も貯めてますなどと発表するのは異例のことだ。他ではそんな記述はない。ただ、この情報はたぶん古いから、今はどうなっているかは分からない。
 檀渓橋のたもとに、ボロボロになった「檀渓之勝蹟」と刻まれた石碑が建っている。かつての名所・檀渓がこのあたりだったことを示すものだけど、空襲で壊れたものを継いで直したためにそんなふうになっている。かつての記憶をとどめるためにあえてそうしたのだろう。
 ここは縄文時代、もしくはそれ以前からの古い歴史が積み重なった土地で、それだけ多くの人の生と死が折り重なっている。空襲の被害にも遭っている。
 人によってはこのあたりの空気が淀んでいるように感じられることがあるそうで、それもそんな歴史ゆえだろうか。
 いずれにしても藤成の神明社は藤成新田の氏神としてアマテラスを祀った神明社といった単純な神社ではないと感じる。今の私にはこのあたりが行き止まりのようだけど、神社は歴史を紐解かれるのを待っているかもしれない。後に続く人に託したい。

 

作成日 2018.2.9(最終更新日 2019.3.18)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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