神明社(中野新町)

中野外新田の神明さん

中野新町神明社

読み方 しんめい-しゃ(なかのしんちょう)
所在地 名古屋市中川区中野新町5丁目77 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十四等級
祭神 天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
アクセス あおなみ線「中島駅」から徒歩約23分
駐車場 なし
その他 例祭 10月7日
オススメ度

 かつての中野外新田にあった神明社のひとつ。
 干拓による熱田新田の開発に先立って1634年(寛永11年)に中野外新田は開発された。
 尾張における新田開発の第一人者といえる鬼頭吉兵衛景義が開発にたずさわったという話があるのだけど、『尾張徇行記』(1822年)は鬼頭弥五郎の五代前の先祖と書いていて、それが吉兵衛景義のことなのかどうか分からない。いずれにしても鬼頭家が行ったのは間違いなさそうだ。
 中野外新田は中川を挟んで東西にまたがっており、西は西屋敷、東は中島屋敷と五軒屋敷と3つに分かれていた。西屋敷の氏神がこの神明社だ。

『寛文村々覚書』(1670年頃)には「社弐ヶ所 神明 明神 社内年貢地 村中支配」とある。
 明神は今の八剱町の八剱社地図)だと思う。
 社内が年貢地になっていて、中野外新田の開発が1634年だから、神社創建はそれ以降ということになるだろう。
『尾張徇行記』(1822年)は「神明社明神社界内年貢地」、「熱田社家松岡小太夫書上張ニ、神明社内一畝十五歩、八劔社内六畝十歩共ニ年貢地」と書いている。
 当初は村で支配していたものがどこかで熱田社家の松岡氏の管理下になったようだ。ただ、江戸時代を通じて年貢地というのは変わらなかった。
『尾張志』(1844年)には「神明社 八劔社 中野外新田にあり」とあるから、どこかで明神は八劔社となったようだ。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではない。『尾張志』に”神明社、中野新田にあり”と記るす。明治5年7月、村社に列格した。昭和3年11月、中野新町タノ割53番地に鎮座のところ中川運河が開かれて現在地に遷る。昭和19年10月社殿を修復、社務所を改築した」
 中野新町タノ割という町名は残っていないため、どこなのかが分からない(中野外新田の字名はイロハのイロハニホヘトチリヌルヲワカヨタレがあった)。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、現在の福船町3丁目に鳥居マークが描かれている。三光刃物製作所やセンチュリーレジデンスがあるあたりだ(地図)。ここが神明社の旧地だっただろうか。
 中川運河は名古屋港と旧国鉄笹島貨物駅(現在のささしまライブ駅付近)を結ぶため、自然河川の中川を掘って運河にしたものだ。
 大正15年(1926年)に工事が始まって、昭和5年(1930年)に完成した。
 昭和3年に神社を移したというのは、この工事に伴うものだったのだろう。
 現在の中野新町は横長の町割りがきれいに並んだ区画になっている。これも中川運河によるものだろう。大正時代までこのあたりはまだ田んぼだった。
 面白いのは道路によって区画が分かれているのではなく、道路に対して上下(南北)の道沿いの建物ごと町内になっている点だ。
 なので、神社の社殿は中野新町5丁目で、境内地は中野新町6丁目ということになる。
 建物内に境界線が引かれているところがあって、屋内の半分は5丁目で半分は6丁目というところもある。

 神社のすぐ南西にある小学校は昭和橋小学校で、その他昭和橋という名称がつく建物や施設がたくさんある。それは中川運河に架かる1号線の橋が昭和橋という名前だからだ。
 平成も31年で終わって令和となった。あと10年もすれば平成という響きも懐かしいものと感じられるようになるのだろう。平成さえも古めかしくなったなら、昭和というのは私たちが子供の頃に感じていた大正時代くらいの感覚になるだろうか。子供たちにしたら大昔の歴史上の年号のように思えるのかもしれない。気づけば小さな子供を持つ若い親世代は平成生まれた。
 昭和が昭和時代と呼ばれる日はさほど遠くない。

 

作成日 2017.7.12(最終更新日 2019.6.14)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

中野外新田の神明社

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