地下鉄東山線「星ヶ丘駅」から東へ向かう名東本通沿いの北側に神社はある。 半地下のようになっているのは境内地が低いのではなく名東本通が高い位置に作られたからだ。かつての高針街道は道幅が狭すぎたため、土を盛って道路の幅を広げた。なので、神社のある高さが本来のこの土地の高さということになる。 かつては見渡す限り田んぼと畑しかないような場所だったというけど、今となってはその風景を思い浮かべるのは難しい。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、このあたり一帯が丘陵地で、高針街道がその縁に沿うように通っており、丘と丘の間の狭い平地を農地にしていたことが見てとれる。江戸時代には30を超える溜め池が作られたというけど、その後の宅地開発でほとんどが埋められて、残っているのは牧野池や五合池くらいになった。神丘公園のデッチョ池は昭和63年に作られた新しいもので江戸時代の溜め池ではない。 通り沿いに立っている紅白の幟で神社の存在に気づいても、駐車場はなく、周辺に路上駐車しておけるスペースもないから参拝したくてもできないという人もいるかもしれない。歩きの人にしても、なんとなく怪しげな半地下の神社ということで立ち寄ることをちゅうちょするだろうか。
昭和の初め頃、出来町出身で御嶽教先達の水谷与太郎(安良霊神)の枕元に三徳竜神が現れた。自分を祀れ、そうすればその地を繁栄させようというお告げを受けた水谷与太郎は、さっそくその場所を探し、高針の地と定め、村の地主たちに掛け合って土地を譲ってもらった。それが現在の神社がある場所という。 当時は沼と荒れ地で足を踏み入れることも困難な土地だったようだ。 水谷与太郎はひとりでその荒れ地を整備して龍神を祀る祠を建てた。藪だらけでマムシも多く、大変苦労したそうだ。 千種区、名東区のあたりはマムシが多いところだったという話がよく出てくる。名古屋晴明神社には安倍晴明一族がこの地に飛ばされてきたときにマムシを退治したという伝説が残っているし、池下の蝮ヶ池八幡宮はマムシが多かった蝮ヶ池から来ている。 マムシは健全な自然の指標のような生きものだから、このあたりは戦前までは自然豊かな動植物の楽園だったということだ。 その後、戦後の昭和43年(1968年)に現在のような神社としての体裁が整ったということだ。
安良霊神(水谷与太郎)の石碑と本社があり、その左右に小さな社がある。 本社で三徳龍神を祀っているのだろうけど、その左右は分からない。御嶽教に関係があるのかないのか。 三徳龍神の三徳とは天の徳、地の徳、人の徳をいうらしい。 本社後ろの楠の木はなかなか立派で、御神木となっている。 今もこの神社を管理しているのは御嶽教の人たちかもしれない。紅白の幟は信者さんたちが半年ごとに交換しているそうだ。
神社近くには神里、神丘といった地名がある。これはかつてこのあたりが山の神と呼ばれていたことから来ている。『尾張志』によると江戸時代後期の高針村には山神社が4社あったようだから、それが由来だろうか。ただ、現在、山神社は残っていない。 この地を繁栄させるという三徳龍神の約束は果たされたとみていいだろうか。すごく賑わっているわけではないけれど、荒れ地の時代からすれば住宅地としてよく整備されている。神社も建てられ、こうして今も残った。それが約束が果たされた証といえるかもしれない。
作成日 2018.1.18(最終更新日 2019.1.31)
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