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白山神社(西城)

守山区の中ではよく分からない白山神社

西城白山神社
読み方はくさん-じんじゃ(にししろ)
所在地名古屋市守山区西城2丁目10-18 地図
創建年不明(1596年以前)
旧社格・等級等村社・十三等級
祭神菊理姫命(くくりひめのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
倉稲魂神(うかのみたまのかみ)
應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス名鉄瀬戸線「小幡駅」から徒歩約22分
駐車場 なし
その他例祭 10月17日
オススメ度

 守山区には小幡白山神社市場白山神社、西城白山神社の3つの白山神社がある。地図上では牛牧白山神社(地図)もあるのだけど、ここは通常の参拝ができないので数には入れないでおく。
 小幡白山神社は飛鳥時代前期の600年頃、市場白山神社は奈良時代初期の712年頃創建とされる。
 西城の白山神社はそこまで古くないようで、慶長年間(1596-1615年)以前としている。



 地形と遺跡についていうと、守山区は庄内川と矢田川が東から西に流れる丘陵地で、早くから川沿いに人が暮らしていた。
 現在、小幡緑地公園西園(地図)になっているところは縄文時代から古墳時代にかけての集落があったことが分かっており、牛牧遺跡と名づけられている。
 古墳でいうと北東部の志段味地区に4世紀から7世紀にかけての古墳が継続的に築かれた。4世紀前半の白鳥塚古墳(地図)や4世紀後半の尾張戸神社古墳をはじめ、名古屋で一番古墳が多いのがこの地区だ。
 その勢力と同じなのか別なのか、小幡周辺にも中規模の前方後円墳や円墳が点在する。小幡白山神社の白山神社古墳(地図)、市場白山神社の守山白山古墳(地図)、守山瓢箪山古墳(地図)、小幡長塚古墳(地図)、小幡茶臼山古墳(地図)などが代表的なものだ。
 神社創建のルーツを辿ると縄文時代の自然崇拝や素朴な祭祀にいきつくといわれる。牛牧の集落にいた人々やその子孫が神社創建につながっているのかどうか。
 小幡には欽明天皇(在位539-571年)の皇子である小墾田王(おはりだおう)が来ていたという話があり、その一族が氏神を祀ったのが小幡白山神社の始まりともされる。小幡の地名も、この小墾田王から来ているという説もある。
 ただし小墾田王は欽明天皇の系図には出てこない。



 時代はずっと下って戦国時代、白山神社の南西100メートルほどのところに小幡城が築かれた(地図)。「ビブレにししろ」の前の駐車場角に説明板が立っている。
 西城(にししろ)の地名は、西に小幡城があったことから名づけられている。
 小幡城は1522年(大永二年)に織田敏信・信安親子の家臣、岡田重篤が築城したとされる。
 岡田重篤は源氏の武将で鎌倉幕府の御家人だった山田重忠の子孫に当たる。後に、星﨑城(南区)を築いてそちらに移った。
 1535年、家康の祖父である松平清康が尾張に侵攻し、守山城を攻めるべく小幡城に入ったとき、家臣の阿部正豊に斬られてしまう。これを森山崩れと呼でんおり、これがきっかけで松平家は力を失い、家康が今川の人質にされてしまう。
 代わって城主になった織田信秀(信長の父)の弟・信光も1555年に那古野城で命を落とし、小幡城は廃城となった。
 その後の1584年の小牧長久手の戦いでは徳川家康軍が改築して利用するも、戦の後に再び廃城となった。
 北へ回ってみるとすぐ前が断崖になっており、北と西からは攻められない場所にあることが分かる。
 西城の白山神社は小幡城の北東にあるということで、もしかしたら小幡城主が鬼門の守りのために創建したのかもしれない。そうでなければ、村の人が近くにあった白山神社から分霊しただろうか。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、慶長年中(1596)以前の鎮座と伝える。明治5年7月、村社に列格し、大正8年12月18日許可をうけ字村東150番地鎮座の無格社神明社を大正9年1月5日当社に合祀した。昭和61年6月、境内社の稲荷社、八幡社を本社に合祀する」



 神社がある場所は大森垣外村(おおもりがいとむら)で、現在の地名でいうと村合町、村前町、西城あたりが村域にあたる。この白山神社があったのは、集落から外れた東の田んぼの中だった。
 今昔マップの明治期を見るとそのあたりが分かる。



 江戸期の書の大森垣外村の項はそれぞれ以下のようになっている。



『尾張志』(1844年)
「神明社 白山社 熊野社 以上三社同所 天神ノ社 八龍社 五社ともに大森垣外村にあり」



『尾張徇行記』(1822年)
「社四ヶ所 神明熊野白山 八龍天神山神社内二反二歩前々除 利海寺書上ニ、八龍宮界内一反五畝前々除 桂星寺書上ニ、白山神明熊野社界内三畝六歩前々除 天神社内長五間横四間 山神社内長十五間横四間共ニ前々除」



『寛文村々覚書』(1670年頃)
「大森海道村
 社四ヶ所 内 神明熊野白山 八龍 天神 山神
 社内弐反弐畝 前々除 円福寺・桂星寺持分」



 これによると、白山と神明と熊野が同じところにあって、ほとんど一社の扱いだったことが分かる。
 大森垣外村は大森海道村ともいっていた。
『愛知縣神社名鑑』は大正9年に村東にあった神明社を合祀して、昭和61年に境内社だった稲荷社と八幡社を本社に合祀したとある。
 江戸時代に白山とともにあった神明と村東の神明は同じものなのか別なのか。
 現在、村合町にある神明社地図)は大森垣外村にあった神社だ。村内にあった津島社(村合)と秋葉社(欠口)は明治11年(1878年)に、八龍、天神、山神は大正2年(1913年)に村合町の神明社に合祀されている。
 白山と同じところにあった熊野はどこへ行ってしまったのか。現在の祭神の中に熊野社の神は入っていない。
 桂星寺は天台宗の寺で、明治になって廃寺になった。



 神社の東を走る市道が昭和59年(1984年)に拡張されることになったとき、境内の一部がかかるということで名古屋市に買収された。そのお金で社殿や社務所を建て替えている。そのせいもあって、現在の神社は趣のないものとなってしまった。建て替えの前はもっと古びて時代がかっていたんじゃないかと思う。



 江戸時代から明治を経て現在に到るまでの大森垣外村にあった神社がどういう経緯を辿ったのかが分からず、不明な部分が多く残った。調査を継続させたいところではあるけど、これ以上のことが分かるかどうか。
 この白山神社をいつ誰が建てたのかも、まったく推測できない。




作成日 2018.5.12(最終更新日 2019.1.24)


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