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秋葉堂(山の手)


手付かずの丘陵地帯だったのは昔の話



山の手秋葉堂

読み方あきば-どう(やまのて)
所在地名古屋市名東区山の手2丁目 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセス地下鉄東山線「一社駅」から徒歩約41分
市バス「香流小学校前停留所」から徒歩約5分
駐車場 なし
その他 
オススメ度

 江戸時代の猪子石村の集落の南端近くだったところにある秋葉堂。
 猪子石村は丘陵地帯の縁にへばりつくように集落が形成されており、離れた北に香流集落と香流川の北に引山集落があった。
 猪子石村から南は手付かずの丘陵地帯で近年までは人の住むような土地ではなかった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く村と周辺の状況が見てとれる。
 村の北の香流川の両岸に田んぼを作り、山手の方には溜め池をたくさん造成した。
 わずかでも平地があるとそこを田畑にして、溜め池を用水にしていたようだ。今の東山通や302号線(名古屋第二環状道)などが田んぼエリアだったことが分かる。
 香流から南の丘陵地帯が宅地化されたのは1960年代以降のことだ。森林を伐採し、山を切り崩して道を通し、住宅を建てた。古くからこのあたりを知っていた人はあまりの変貌ぶりに驚いたことだろう。
 かつて蓬莱谷と呼ばれていた頃の面影はまったくない。現在の蓬莱小学校(よもぎしょうがっこう/地図)のあたりにあった八劔宮は、明治になって猪子石の神明社に移されてなくなってしまったのだけど、熱田にゆかりの八劔宮があることから蓬莱谷と呼ばれたとされる。古くから熱田は蓬莱といわれていた。八前の地名は八劔宮の前という意味だ。
 地名のことをいえば、よもぎ台、つつじが丘、赤松台、若葉台、文教台など、かつての土地の名残が地名からうかがえる。秋葉堂がある山の手もそうだ。



 こういった状況を踏まえつつ秋葉堂の場所を考えると、江戸時代からここにあったとしてもおかしくない。村の南の行き止まりで、今昔マップには樹林のマークが描かれている。
 現在は住宅地の中の一角になっていて、地蔵堂と隣り合わせに一体化している。
 秋葉山と彫られた石灯篭があり、堂の上には秋葉堂と書かれた額がかかっている。
 堂の中には小さな社が三社収まっており、中央が秋葉社で、左右に津島社と御嶽社がある。
 秋葉社と津島社は大きさが違う同じ造りの社で、銅板葺きの流造となっている。これは高級神棚タイプの社だから、おそらく野ざらしで祀られていたものではない。どこかの家庭内で祀られていたものを移したのかもしれない。
 というよりも、ここの敷地はかつて家が建っていた場所に違いないことから、この家の中で祀られていたものとも考えられる。
 お堂は屋根瓦の白塗りコンクリート造という立派なもので、蔵と呼んでもいいくらいだ。ここに家を建てていた人の忘れ形見のようにも思える。



 地蔵堂の中にはよく分からない地蔵が安置されている。けっこう摩耗しているので、こちらは野ざらしだったかもしれない。
 地蔵像の横に「奉請青面金剛庚申 組内安全子孫長久 吉祥攸」と書かれた卒塔婆が立てかけてある。
 青面金剛(しょうめんこんごう)は、民間信仰の庚申の夜叉神で、中国の道教思想に由来する。
 庚申(かのえさる/こうしん)の日に体の中にいる三尸(さんし)が寝ている間に体を抜け出して天に悪事を報告しにいくと信じられていたため、その日はみんなで集まって徹夜をするといったことをやっていた。その三尸を抑え込んでくれる神が青面金剛とされていた。
 庚申待ちは江戸時代に庶民の間で流行り、仲間内の集まりや飲み会のようになっていったという面もある。
 この卒塔婆はそういった庚申講の人たちが奉納したものだろう。



 山の手のあたりもすっかり住宅地となって、世代交代も進み、かつて手付かずの自然が残る丘陵地帯だったことを知っている人も少なくなっただろう。
 住宅地の中にある秋葉堂をわざわざ訪れる人は少ないだろうし、横の道を車で通っても気づかないに違いないけど、村の記憶をとどめ、未来に伝えるという役割があるので、今後も残していってもらえればと思う。




作成日 2019.5.9


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

民家跡の立派な山の手秋葉堂

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