名古屋市の西北端に位置する中川区千音寺(せんのんじ)。西は今のあま市、かつての七宝町と、北は大治町と接している。 かつてここは富田荘と呼ばれ、尾張の米どころだった。 七宝町、蟹江町、大治町、甚目寺あたりに広がる荘園で、平安時代中期の11世紀後半に成立したとされる。 近衛家などが領した後、鎌倉時代は鎌倉の円覚寺(web)に寄進された。 円覚寺が所蔵する「富田荘絵図」(重要文化財)は、室町時代初期の1338年に作成されたもので、絵図には千音寺も描かれている。
『愛知縣神社名鑑』はそのあたりも含め、この神社についてこう書いている。 「この地は富田の荘と称して尾張穀倉の中心地で土地豊穣良米を産出する。弘安五年(1282)執権北条時宗、鎌倉に円覚寺を建て富田の荘を寺領として二百有余年領有する。天神社も同寺の末寺長禅寺が別当となり、国司自ら祭典を行ったという。『尾張徇行記』に境内三畝歩除地とあり、明治初年の制度改めにより長禅寺を離れたが由緒等の古文書等は昭和二十年五月の空襲により烏有に帰す。明治五年七月、村社に列格した」
千音寺村が村としていつ成立したのかはよく分からないのだけど、集落の歴史としてはかなり古いと考えられる。 天神社の少し西の桜木、字下前田畔、字上前田畔、字猪ノ木、字中狭間、字西川岸の範囲で古墳時代以降の千音寺遺跡が見つかっていることからもそれはうかがえる。 村内の赤星神社は『尾張国内神名帳』に載る「正四位赤星名神」(または従二位)とされる古社で(異説あり)、圓乗寺は939年に比叡山延暦寺15世の延昌が創建したとされる古刹だ。 圓乗寺の創建時の号が千如山音教寺だったことが千音寺村の村名の由来かもしれない。それ以前は赤星村(あかぼしむら)だったという話がある。 円覚寺の末寺だった長禅寺も古く、奈良時代初期の710年に創建されたといわれている。 これらを考え合わせると、この千音寺の天神社も平安時代末か鎌倉時代あたりに建てられた可能性がある。 古文書が戦中まで残っていたというなら、いくら紙の記録は焼けてしまったとしても人の記憶は残っているはずで、もう少し詳しい由緒が伝わっていてもよさそうなのだけど、戦争で神社の歴史どころではなくなってしまったということだろうか。
江戸時代の書の千音寺村の項はそれぞれ以下のようになっている。
『寛文村々覚書』(1670年頃) 「社三ヶ所 内 神明 大明神 天神 中郷村祢宜 孫大夫持分 社内四反弐畝弐拾壱歩 松・竹林 前々除 外 田畑六畝歩 右神明・大明神領 前々除」
『尾張徇行記』(1822年) 「(長禅寺)境内鎮守社(白山社)勧請年暦知レズ 天神社内三畝前々除、七社大明神社内二反八畝二十一歩前々除、外ニ社領上田三畝備前検、除田二反村除、此二社勧請ノ年暦モ不知由」
『尾張志』(1844年)に千音寺村の神社を見つけることができなかった。
現在まで千音寺に残っている神社は天神社、赤星神社、七所社(千音寺稲屋)だ。それが『寛文村々覚書』では神明、大明神、天神となっている。大明神が七所社のことなのか赤星社のことなのか判断がつかないのだけど、『尾張徇行記』には七社大明神と赤星大明神が載っている。このあたりがちょっとよく分からない。 創建年は不明で、再建についても書かれていない。前々除なので1608年の備前検地以前から除地となっていたことだけは分かる。
祭りのときに撮られた写真を見ると、神社前に立てられた幟に「天穂日天神社」と書かれている。現在まで祭神は天穂日(アメノホヒ)としている。 アメノホヒを単独で祀っている神社は名古屋ではかなり珍しく、私の知る限り他には瑞穂区浮島町の浮島神社しかない。 アマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた五男三女神のうちの一柱なので、五男三女神として祀っているところはたまにある。 アメノホヒは、アマテラスの勾玉から生まれたとされ、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)の弟に当たる。 葦原中国(地上界)を平定するために出雲の大国主神(オオクニヌシ)のところに派遣されたのだけど、オオクニヌシのことを気に入って地上に住みついて3年も戻ってこなかったとされる神だ。 出雲ではアメノホヒの子供の建比良鳥命(タケヒラトリ)が出雲国造などの祖神となったとしている。 名前に穂が入ることから稲穂の神とされ、古くは多くの神社で祀られていたのではないかと思う。時代の流れと菅原道真の天神信仰とも混ざってしまう中でだんだん忘れられていったのではないだろうか。 天神社という名前を変えず、祭神もアメノホヒのままとしているこの神社にある種の気概といったものを感じる。あるいは出雲族の誇りといった方がいいかもしれない。
神社が建っているロケーションがなんとなく不思議な感じがする。 境内の周囲が円形の掘のようになっていて田んぼのような空き地のようななのだけど、低い円墳のようにも思える。あるいは、池の中に浮かぶ小島のようでもある。 現在は西側に鳥居があり、社殿は南を向いている。南側はすとんと土地が低くなっているものの、かつては南側に入り口の鳥居があったのではないかと思われる。池の中の島だったら橋が架かっていただろうし、そうでなければ階段があっただろう。 近くには高速道路やジャンクションがあって、このあたりの地形は大きく変わっているため、かつての姿を想像するのが難しい。平安や鎌倉の頃は、周囲に高いところが何もないだだっ広い穀倉地帯だったのだろう。今でも海抜0メートル地帯なくらいだから、更にさかのぼればこのあたりまで海だった時代もあっただろうか。 古い神社の名残をわずかにとどめながら現代まで生き延びた神社、そんな印象を受けた。歴史を伝えようとするささやき声は小さすぎて私にははっきり聞き取ることができなかった。誰かに再発見してもらうことをこの神社は望んでいるのではないだろうか。
作成日 2017.11.24(最終更新日 2019.7.8)
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