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熊野社(二女子町)


スサノオを祀る熊野社



二女子町熊野社

読み方くまの-しゃ(ににょし-ちょう)
所在地名古屋市中川区二女子町3丁目25 地図
創建年1633年?(江戸時代前期)
旧社格・等級等旧村社・十等級
祭神建速須佐之男命(タケハヤスサノオ)
アクセスJR東海道本線「尾頭橋駅」から徒歩約25分
駐車場なし
祭礼・その他例祭 10月第1日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)
二女子熊野社に参拝

 熊野社なのに祭神が建速須佐之男命(スサノオ)になっていて、あれ? と思った。
 名古屋は熊野社が少なくて比較するにはデータが不足しているのだけど、市内や周辺の熊野社は伊弉冉尊(イザナミ)を祀っているところが多い。
 中村区の熊野社(権現通)は伊弉冉尊、南区の熊野三社(呼続)は伊弉冉尊・事解之男命(コトサカノオ)・速玉之男命(ハヤタマノオ)、守山区の熊野社(大永寺)伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊・大山津見命(オオヤマツミ)、瀬戸市の熊野神社(熊野町)伊邪那美命(イザナミ)、熊野社(東菱野)は伊弉諾尊・速玉男神・事解男神、春日井市熊野町の熊野神社は速玉男命・伊弉册命・事解男命となっている。
 途中での入れ替わりや追加、削除などがあったとしても、素戔嗚尊は普通は入ってこない。
 つまり、名古屋市内の熊野社で、素戔嗚尊(建速須佐之男命)を単独で祀っているのは中川区二女子町の熊野社だけということになる。

 熊野神社は熊野三山とも呼ばれ、熊野本宮大社(公式サイト)、熊野速玉大社(公式サイト)、熊野那智大社(公式サイト)の三社から成り立っている。もともとは別々の神社だったのが、神仏習合しつつ三社は一体化してひとつの信仰へと昇華していった。『延喜式』神名帳(927年)には、熊野坐神社(熊野本宮大社)と熊野速玉大社は載っているも、熊野那智大社はない。
 本宮の祭神は、家都美御子大神(ケツミコ)。
 新宮(熊野速玉大社)は、熊野速玉大神(ハヤタマ)と熊野夫須美大神(フスミ)。
 那智は、熊野夫須美大神とされている。
 熊野の神、熊野権現とはどういう神かというのは難しい問題で、ここには書ききれない。
 明治の神仏分離令以降、家都美御子大神は素戔嗚尊、熊野速玉大神と熊野夫須美大神は夫婦の神ということで伊弉諾尊・伊弉冉尊とされた。
 だから、本宮の神である家都美御子大神=素戔嗚尊を熊野社の祭神とすることは不自然なことではないのだけど、でもどうしてそうしたんだろうと不思議に思う。
 それは同時に、名古屋の熊野社はどうして伊弉冉尊を祭神とするところが多いのだろうという疑問も同時に抱く。

 ここ二女子熊野社の創建は江戸時代前期の1633年という。
 地理的なことをいうと、北を東西に走る佐屋街道から南へ150メートルほど入ったところなので、ほぼ佐屋街道沿いといっていい場所にある。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、神社があるのは二女子村集落の北部だったことが分かる。
 佐屋街道が本格的に整備されたのは1634年で、家光の上洛にあわせて尾張藩初代藩主の義直が開いたとされる。
 しかしながら佐屋街道の元になる道は古くからあったようで、家康が大坂夏の陣で駿府から大坂へ向かうときは佐屋街道を通っている。日本武尊(ヤマトタケル)東征の伝承も残る。
 江戸時代を通じて、海路を行く七里の渡しの脇街道として発展していくことになった。船が苦手な人や海が荒れて船が出せないときなどにも重宝され、参勤交代で使われることもあった。
 江戸時代の熊野社には大勢の旅人が立ち寄ったのではないだろうか。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の二女子村の項にはこうある。
「社三ヶ所 内 明神 権現弐社 牛立村祢宜 九左衞門持分 社内六畝拾五歩 前々除」
『尾張志』(1844年)に、「熊野社 白山ノ社 二女子村にあり」とあることからすると、権現弐社は熊野権現と白山権現のことのようだ。いずれも前々除となっていることからすると、1608年の備前検地以前からあったということで、社伝がいう1633年創建は間違いということになる。
 明神については調べがつかなかった。廃社になったか合祀されたか他へ移されたかしたのだろう。
 祭神についてこれらの書から手がかりは得られない。江戸時代なので当然建速須佐之男命ではなく熊野権現だっただろう。
 それにしても、江戸時代の神官や庶民は熊野権現について深く理解していたのだろうか。

 全国的にはあまり知られていないのだけど、島根県松江市に熊野大社(公式サイト)がある。
 熊野大社といえば和歌山の熊野本宮大社のことだとたいていの人が思うだろうし、同じ島根でいえば出雲大社(公式サイト)が圧倒的な知名度を誇っている。
 しかし、熊野大社は出雲大社と並んで出雲国一宮だった。出雲大社の国造家はもともと熊野大社がある意宇郡にあって、今も出雲国造の千家家は世継ぎなどの重要な儀式は熊野大社に出向いて行っている。
 和歌山の熊野本宮大社も出雲の熊野大社から移されたものという説もある。
 この熊野大社の祭神は伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命となっている。読むと「いざなぎのひまなご くまののおおかみ くしみけぬのみこと」となる。
 これが素戔嗚尊の別名ということになっている。
 出雲大社はもともと杵築大社といっていて、平安時代前期までは祭神が大国主神(オオクニヌシ)だったのに、中世に神仏習合の影響を受けて素戔嗚尊を祭神としていた。大国主神に戻したのは江戸時代前期の1664年頃のことだ。
 京都にある出雲大神宮(丹波国一宮/公式サイト)が出雲の本家だと言い張っているのはそういう歴史があったからだ。

 話を戻すと、二女子町の熊野社は、誰がどこから勧請して建てたのか、ということが問題となる。二女子の集落がいつできたかということでもあるのだけど、最初から熊野社だったとは限らない。
 祭神を建速須佐之男命としたのは明治以降だろうけど、伊弉冉尊とせず建速須佐之男命としたのには何らかの根拠があったはずだ。
 熊野の本宮から勧請したから建速須佐之男命としたというのが妥当な考えなのだろうけど、出雲の熊野大社から勧請したということがあり得るのだろうか。
 実際のところはもっと単純な話で、熊野詣でをしてきた人が自宅か村に小さな祠を作って熊野権現として祀っていたものがいつしか村の守り神とされて立派な神社となり、明治の神仏分離令でなんとなく祭神を建速須佐之男命にしてしまっただけかもしれない。
 なんにしても、名古屋では珍しい建速須佐之男命を祀る熊野社ということで、記憶しておくことにしよう。


作成日 2017.7.7(最終更新日 2025.8.20)

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