戸田にある五社のうち、四之割の氏神に当たる白山社。
(割や戸田まつりなどについては戸田八幡社を参照)
戸田の五社については、ほとんど何も分からないというのが実情だ。山車祭りについてはある程度詳しく伝わっているのに、神社の由緒については伝わらなかったようだ。
『寛文村々覚書』(1655年から調査して1670年頃成立)に「白山」として載っているから、その頃にはすでにあったことが分かる。
創建が江戸期以前として、どこまでさかのぼれるか。戦国時代と室町時代と鎌倉時代とでは、成り立ちの意味もだいぶ違ってくる。
そもそも、戸田の五社は同じ時期に建てられたのだろうか。開きがあるなら、どれくらいの開きなのか。
5つの割の序列というか配分というか、集落の大小についてもよく分からない。完全な横並びだったのか、縦関係があったのかどうか。
少し気になったのが、白山社と鈴宮社の間に寺院が密集していることだ。實泉寺、法然寺、西照寺、太平寺、浄賢寺が狭い場所に固まっている。かつてはもっと寺があったかもしれない。
偶然こんなふうに集まるはずもなく、あえてこの場所に集めたに違いない。地形的な理由からか、もしくは村の中心がここだったのか。
戸田村は、のちに戸田氏として多くの家が発展することになる戸田家の本貫地だった。
平安時代末に富田荘が成立して、平季政が富田荘の荘司となり館を建てたのが後の戸田城になったとされる。
鎌倉時代に森信義が戸田荘の地頭職についたときに戸田氏を名乗ったのが尾張における戸田氏の始まりとされる。
室町時代になると、上野(愛知県豊田市)や三河の田原などに城を築き、戦国時代には松平家(後の徳川家)の配下に入り、江戸時代は大垣や松本、宇都宮の藩主などになった。
もしかすると、戸田の五社はすべて戸田家が関わったかもしれない。
神社の割り振りが上手くいきすぎているから、これは村人同士の話し合いで決まったというよりも、上からの命で割り振られたと考えた方が自然な気がする。
戸田は名古屋市の西端で、すぐ隣は蟹江町だ。ここまで名古屋市なら大治町や清須市の半分くらいも名古屋市でいいんじゃないのと思うほど中心地からは離れている(そんなことをいうと守山区の方がもっと離れてるけど)。
かつては海東郡戸田村で、海西郡と合併して海部郡(あまぐん)となり、昭和30年(1955年)に名古屋市に組み込まれて中川区戸田となった。
戸田のつく地名は他に、戸田西、戸田ゆたか、戸田明正がある。
白山社の読み方については正確な読み方が分からず、とりあえず「はくさん」としたけど、もしかすると「しらやま」かもしれない。
仏系の白山からの勧請なのか、神系の白山比咩神社からの勧請かによっても違ってくる。
創建時期も創建者も分からないので、なんともいえないという曖昧な結論となってしまう。
四之割、白山社のからくりは、唐子遊びだ。
親唐子の肩に乗って太鼓を叩く子唐子が親唐子から離れて宙づりになるというもので、柱時計の技術が使われているという。
戸田まつりは毎年10月の第一土日に行われている。
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