戸田にある五社のうち、四之割の氏神だった白山社。 割や戸田まつりなどについては戸田八幡社のページに書いた。 戸田の五社については、詳しいことが伝わっておらずほとんど何も分からない。山車祭りについてはある程度伝わっているのに、神社の由緒については伝わらなかったようだ。 『寛文村々覚書』(1670年頃成立)に五社が載っているので、少なくともその頃にはあったことははっきりしている。 戸田は平安時代末に成立した富田荘という荘園の一部だったから、その頃に神社が建てられたとしてもおかしくはない。 一之割の八幡社は鎌倉時代創建という話があるものの、江戸時代は除地ではなく年貢地になっていたことが引っかかる。 五社が同じ時期に建てられたかどうかも分からない。 5つの割の序列というか配分というか、集落の大小についても把握していない。完全な横並びだったのか、縦関係があったのかどうか。 少し気になったのが、白山社と鈴宮社の間に寺院が密集していることだ。實泉寺、法然寺、西照寺、太平寺、浄賢寺が狭い場所に固まっている。西照寺や實泉寺は室町時代創建と伝わるので、神社もその頃建てられたかもしれない。 偶然こんなふうに集まるはずもなく、あえてこの場所に集めたに違いない。地形的な理由からか、もしくは村の中心がここだったからか。
戸田村は、のちに戸田氏として多くの家が発展した戸田家の本貫地だった。 平安時代末に富田荘が成立したとき、平季政が荘司となり館を建てたのが後の戸田城になったとされる。八幡社の近くだったとされるも遺構は残っておらず場所ははっきりしない。 鎌倉時代に森信義が戸田荘の地頭職についたときに戸田氏を名乗ったのが尾張における戸田氏の始まりとされる。 室町時代になると、上野(愛知県豊田市)や三河の田原などに城を築き、戦国時代には松平家(後の徳川家)の配下に入り、江戸時代は大垣や松本、宇都宮の藩主などになった。 もしかすると、戸田の五社はすべて戸田家が関わったかもしれない。 神社の割り振りが上手くいきすぎているから、これは村人同士の話し合いで決まったというよりも、上からの命で割り振られたと考えた方が自然だ。
戸田は名古屋市の西端で、すぐ隣は海部郡蟹江町だ。ここまで名古屋市なら大治町や清須市の半分くらいも名古屋市でいいんじゃないのと思うほど中心地からは離れている(そんなことをいうと守山区の方がもっと離れてるけど)。 かつては海東郡戸田村で、海西郡と合併して海部郡(あまぐん)となり、昭和30年(1955年)に名古屋市に組み込まれて中川区戸田となった。 戸田のつく地名は他に、戸田西、戸田ゆたか、戸田明正がある。
白山社の読み方については正確な読み方が分からず、とりあえず「はくさん」としたけど、もしかすると「しらやま」かもしれない。 祭神が菊理媛(ククリヒメ)ではなく伊弉冉命(イザナミ)になっていることからすると、神系の白山比咩神社(web)からではなく仏系の白山平泉寺(web)からの勧請だったかもしれない。
四之割、白山社のからくりは、唐子遊びだ。 親唐子の肩に乗って太鼓を叩く子唐子が親唐子から離れて宙づりになるというもので、柱時計の技術が使われているという。 戸田まつりは毎年10月の第一土日に行われている。
作成日 2017.10.4(最終更新日 2019.6.23)
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