知立社(小碓)

名古屋における知立社の1/2

小碓知立神社

読み方 ちりふ-しゃ(おうす)
所在地 名古屋市中川区松年町1丁目50 地図
創建年 不明(1725年以降)
旧社格・等級等 村社・十一等級
祭神 鵜菩草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
アクセス 地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約29分
あおなみ線「中島駅」から徒歩約23分
駐車場 なし
その他 例祭 10月5日
オススメ度

 愛知県知立市にある知立神社(web)は三河国二宮で、式内社でもあり、県内ではよく知られた神社だ。しかし、名古屋市内において知立社は存在感が薄い。境内社としてはいくらかあるものの、独立した神社としては中川区の知立社と港区の池鯉鮒社(魁町)の2社しかない。その2社も江戸時代に建てられた新しいものだ。
 尾張国一宮の真清田神社(web)や三河国一宮の砥鹿神社(とがじんじゃ/web)などは1社もないから2社もあれば多い方なのだけど、独自性が強くて広がりのない神社と、系列神社の多い神社との違いは何だろうと考えてしまう。系列の多い神社の代表が熱田神宮(web)や津島神社(web)だ。

 この知立社はちょっと変わったいきさつで現在に到っている。
 もともと熱田新田の十一番割に創建された八剱社(八剱町)の飛地末社だったのが、崇敬する人が増えて独立したというのだ。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「創建は明かではないが、慶安四年(1651)尾張二代目光友の時に熱田新田完成し享保十年(1725)、十一番割の八剱社を創祀する。その飛地末社に知立社あり、新田開発により住民急激に増し次第に独立神社となる」
 熱田新田が完成したのは1649年で、十一番割八剱社の創建は1725年というから、その末社として建てられたならそれ以降ということになる。

『尾張志』(1844年)には、
「熱田新田 十一番割 八劔社 末社に戸部天王ノ社 池鯉鮒ノ社あり」とある。
 この鯉鮒ノ社が後に独立した知立社ということになるのだろうか。ただ、現在も八剱社には境内末社として知立社があるから、境内社とは別に池鯉鮒社があったのかもしれない。もしくは、池鯉鮒社が独立した後も境内社として祀っていたのか。
 現在神社がある松年町はかつての十三番割から十六番割だったところで、十一番割八劔社からは直線距離で780メートルほど離れている。飛地境内社として最初からここに池鯉鮒社があったとは思えない。独立したときに移したということなのか。
 今昔マップを見ると明治中頃(1888-1898年)にはすでに現在地に鳥居マークが描かれている。

 祭神は鵜菩草葺不合命(ウガヤフキアエズ)と須佐之男命(スサノオ)になっている。
 スサノオは後から加わったのか、最初からだったのか、ちょっと分からない。
 総本社の知立神社では、
鸕鶿草葺不合尊を主祭神とし、その父である彦火火出見尊 (ヒコホホデミ)、その妻である玉依比売命 (タマヨリヒメ)、その子供で初代・神武天皇である神日本磐余彦尊 (カムヤマトイワレビコ)を祀るとしている。
 生みの母である豊玉姫(トヨタマヒメ)が入っていないのが気になるところではあるけど、そもそもこの祭神の顔ぶれもよく分からない。
 社伝によると、ヤマトタケルが東征のときに知立に立ち寄って戦勝祈願をして、東国平定後に祖神である4柱の神を祀ったのが知立神社の始まりという。
 それにしてはこの面々は不自然なように思う。
 ウガヤフキアエズは一般的に日向の神で、三河ともヤマトタケルとも関係が深いとはいえない。
 山幸彦(彦火火出見尊)と海神の娘トヨタマヒメ(豊玉姫)が結婚して生まれたのがウガヤフキアエズで、トヨタマヒメは海に帰ってしまったので、代わりに派遣されたトヨタマヒメの妹、 タマヨリヒメ(玉依比売)が育てて、のちにふたりは結婚し、4人の子供の末っ子が初代天皇の神武天皇になった、ということになっている。
 ウガヤフキアエズは神武天皇の父というだけで、これといった活躍は伝わっていない。
 ウガヤフキアエズを祀っているのは、宮崎県の鵜戸神宮(web)や宮崎神宮(web)などで、他県で祀る例は少ない。三河国の由緒ある神社が何故、ウガヤフキアエズを祀るとしたのか、そのあたりの事情はよく分からない。祭神については昔から諸説あってはっきりしないというのが実情のようだ。
 いわゆる古史古伝と呼ばれる『竹内文書』、『ウエツフミ』、『富士宮下文書』には神武天皇以前に72代(74代とも)のウガヤフキアエズ朝があったという話が書かれている。一般的には偽書とされているのだけど、まったく根拠のない話ではないと個人的には思っている。
 ただ、ここで扱う内容ではないので、いずれ神社コラムに少し書いてみたい。

  知立社は「ちりふ-しゃ」と読ませる。
 知立市などの場合は、「ちりゅう」と読むのが一般的だ。
 知立神社が先か地名が先か、断言することはできないのだけど、知立の地名が古くからあるのは間違いない。
 7世紀後半の木簡には「知利布」とあり、8世紀以降の木簡や書物では「知立」となっている。平安期の和名抄には「智立」、江戸時代は「池鯉鮒」という当て字がよく使われた。
 知立神社の池に鮒や鯉がたくさんいたからなどという説もある。
 知立は東海道の宿場町があったところで、その際の表記も池鯉鮒宿だった。宿場の名物として鮒や鯉を食べさせていたのかもしれない。
 名物といえば、知立にはふたつのよく知られた名物がある。ひとつはカキツバタ、もうひとつは藤田屋(web)の大あんまきだ。
 古くから知立の八橋はカキツバタの名所として知られており、平安の歌人、在原業平が「かきつばた」の頭文字を使って歌った「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」が有名だ。
(着なれた衣のような妻を都に残して思えば遠くへ来たもんだ、といったような意味)
 大あんまきがいつどういうきっかけで知立の名物になったかは知らないけど、愛知の人なら一度ならずもおみやげなどでもらって食べたことがあるという人が多いのではないだろうか。

 どうして八剱社の末社にすぎなかった知立社を熱田新田の人たちは熱心に参ったのだろう。他にも神社や末社はあっただろうに、知立社だけがもてはやされた理由がよく分からない。
 江戸時代、知立神社は知立明神(池鯉鮒明神)と呼ばれていた。それをどんな神と思っていたのだろう。
 知立神社に現在も残る国の重要文化財の多宝塔は850年に円仁が神宮寺を建立したときに建てたと伝わるもので(1509年再建)、古くから神仏習合していた。
 江戸時代の庶民たちがウガヤフキアエズに自分たちの願い事をしていたとは思えないけど、東海道ではよく知られた知立神社の分社が自分たちの村にあるということに誇りや喜びを感じていたのかもしれない。
 現在までに十一等級まで昇格して(本社の八剱社は十四等級)立派な社殿を持つにまで成長した。名古屋では数少ない知立社としてこれからも大事にしていってほしいと思う。

 

作成日 2017.7.11(最終更新日 2019.6.11)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

末社から独立した小碓知立社

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