知立社(小碓)

名古屋における知立社の1/2

小碓知立神社

読み方 ちりふ-しゃ(おうす)
所在地 名古屋市中川区松年町1-50 地図
創建年 不明(1725年以降)
社格等 村社・十一等級
祭神

鵜菩草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)

 アクセス

・地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約29分
・あおなみ線「中島駅」から徒歩約23分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 愛知県知立市にある知立神社は三河国二宮で、式内社でもあり、県内ではよく知られた神社だ。しかし、名古屋市内において知立社は存在感が薄い。境内社としてはいくらかあるものの、独立した神社としては中川区の知立社と港区の池鯉鮒社のわずか2社しかない。その2社も江戸時代に建てられた新しいものだ。
 たとえばそれは尾張国一宮の真清田神社や三河国一宮の砥鹿神社(とがじんじゃ)もそうだから、特に驚くことではないのだけど、独自性が強くて広がりのない神社と、系列神社の多い神社との違いは何だろうと考えてしまう。系列の多い神社の代表が熱田神宮であり、津島神社だ。

 この知立社、ちょっと変わったいきさつで現在に到っている。
 もともと熱田新田の十一番割に創建された八剱社の飛び地末社だったのが、崇敬する人が増えて独立したというのだ。
『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「創建は明かではないが、慶安四年(1651)尾張二代目光友の時に熱田新田完成し享保十年(1725)、十一番割の八剱社を創祀する。その飛地末社に知立社あり、新田開発により住民急激に増し次第に独立神社となる」
 熱田新田が完成したのは1649年で、初代藩主義直のときだと思うのだけど(義直は1650年に死去)、十一番八剱社の末社だったというのであれば、創建は1725年以降ということになる。
『尾張志』には、
「熱田新田 十一番割 八劔社 末社に戸部天王ノ社 池鯉鮒ノ社あり」とある。
 この鯉鮒ノ社が後に独立した知立社ということになるのだろう。ただ、現在も八剱社には境内末社として知立社があるから、そこからの分霊といった扱いになるのかもしれない。

 祭神は鵜菩草葺不合命(ウガヤフキアエズ)と須佐之男命(スサノオ)になっている。
 スサノオは後から加わったのか、最初からだったのか、ちょっと分からない。
 総本社であり知立神社では、
鸕鶿草葺不合尊を主祭神とし、その父である彦火火出見尊 (ひこほほでみのみこと)、その妻である玉依比売命 (たまよりびめのみこと)、その子供で初代・神武天皇である神日本磐余彦尊 (かむやまといわれびこのみこと)を祀るとしている。
 生みの母である豊玉姫が入っていないのが気になるところではあるけど、そもそもこの祭神の顔ぶれがよく分からない。
 社伝によると、ヤマトタケルが東征のときにこの地に立ち寄って戦勝祈願をして、東国平定後に祖神である4柱の神を祀ったのが知立神社の始まりという。
 それにしてはこの面々は不自然なように思う。
 ウガヤフキアエズは一般的に日向の神で、三河ともヤマトタケルとも関係が深いとはいえない。
 山幸彦(彦火火出見尊)と海神の娘トヨタマヒメ(豊玉姫)が結婚して生まれたのがウガヤフキアエズで、トヨタマヒメは海に帰ってしまったので、代わりに派遣されたトヨタマヒメの妹、玉依姫( タマヨリヒメ)が育てて、のちにふたりは結婚し、4人の子供の末っ子が初代天皇の神武天皇になった、ということになっている。
 ウガヤフキアエズは神武天皇の父というだけで、これといった活躍は伝わっていない。
 ウガヤフキアエズを祀っている神社は、宮崎県の鵜戸神宮宮崎神宮などで、他県で祀るのは例外的だ。三河国の由緒ある神社が何故、ウガヤフキアエズを祀るとしたのか、そのあたりの事情はよく分からない。
 祭神については昔から諸説あってはっきりしないというのが実情のようだ。

  知立社は「ちりふ-しゃ」と読ませる。
 知立市などの場合は、「ちりゅう-し」と読むのが一般的だ。
 知立神社が先か地名が先か、断言することはできないのだけど、知立の地名が古くからあるのは間違いない。
 7世紀後半の木簡には「知利布」とあり、8世紀以降の木簡や書物では「知立」となっている。平安期の和名抄には「智立」、江戸時代は「池鯉鮒」という当て字がよく使われた。
 知立神社の池に鮒や鯉がたくさんいたからなどという説もある。
 ここは東海道の宿場町があったところで、その際の表記も池鯉鮒宿だった。宿場の名物として鮒や鯉を食べさせていたのかもしれない。
 名物といえば、知立にはふたつのよく知られた名物がある。ひとつはカキツバタ、もうひとつは藤田屋の大あんまきだ。
 古くから知立の八橋はカキツバタの名所として知られていたようで、平安の歌人、在原業平が「かきつばた」の頭文字を使って歌った「からころも きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞおもふ」が有名だ。
(着なれた衣ような妻を都に残して思えば遠くへ来たもんだ、といったような意味)
 大あんまきがいつどういうきっかけで知立の名物になったかは知らないけど、愛知の人なら一度ならずもおみやげなどでもらって食べたことがあるという人が多いのではないだろうか。

 どうして八剱社の末社にすぎなかった知立社を熱田新田の人たちは熱心に参ったのだろう。他にも神社や末社はあっただろうに、知立社だけがもてはやされた理由がよく分からない。
 江戸時代、知立神社は知立明神と称されていた。
 現在も残る国の重要文化財の多宝塔は850年に円仁が神宮寺を建立したときに建てたと伝わるもので(1509年再建)、古くから神仏習合している神社だった。
 江戸時代の庶民たちがウガヤフキアエズに自分たちの願い事をしていたとは思えないけど、東海道ではよく知られた知立神社の分社が自分たちの村にあるということに誇りや喜びを感じていたのかもしれない。
 現在までに十一等級まで昇格して(本社の八剱社は十四等級)立派な社殿を持つにまで成長した。名古屋では数少ない知立社としてこれからも大事にされていくことだろう。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

末社から独立した小碓知立社

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