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八幡社(吹上)


八幡と應神天皇と御器所と吹上



吹上八幡社

読み方はちまん-しゃ(ふきあげ)
所在地名古屋市千種区千種2丁目18 地図
創建年1858年(江戸時代末)
旧社格・等級等指定村社・十一等級
祭神應神天皇(おうじんてんのう)
アクセス地下鉄桜通線「吹上駅」から徒歩約15分
駐車場 なし
その他例祭 10月14日
オススメ度

 住所としては千種2丁目なのだけど、古くからこのあたり一帯を吹上(ふきあげ)といっていたので吹上八幡社と呼ばれている。正式名は八幡社だ。
 ずっと昔ここは海の入り江近くだった。西の熱田台地の根元で、JR中央本線の大曽根駅-千種駅間は古代の矢田川の流れが削ってできた谷の部分に当たるため一段低くなっている。
 吹上は海が後退して矢田川が運んだ砂によってできた土地だ。吹上の地名は、風に砂がよく吹き上げられたことから来ているといわれている(諸説あり)。
 江戸時代の村でいうと、古井村と御器所村の境くらいで、神社がある場所は古井村だっただろうと思う。
 神社の南の高速道路も通る若宮大通は戦後にできた新しい道で、かつての幹線道路は北を斜めに通る駿河街道だった。この通りによって古井村と分断された格好になっているから、吹上のあたりは古井村の出郷という位置づけの集落だったのではないかと思う。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代の集落の名残がまだ色濃い。神社は吹上集落の中心あたりにあったことが分かる。



 境内の由緒書きによると、この八幡社は安政5年(1858年)8月に御器所村(字木市)に創建されたもので、明治19年(1886年)7月に崇敬者によって吹上のこの地に移されたという。
 これは本当だろうか?
 安政5年といえば幕末の動乱期で安政の大獄があった年だ。尾張もそれなりに騒がしかっただろうに、どうしてそんな時期に八幡社を建てようということになったのか。
 幕末の人たちにとってすでに八幡神は戦の神ではなかっただろう。その頃の人たちの意識では八幡神は農耕の神という位置づけだったか、あるいは村の守り神と考えたのか。
 1858年創建が確かなら1844年に完成した『尾張志』に載っていないのは当然なのだけど、念のため御器所村の項を見てみると、やはりそれらしい八幡社はない。
「八幡ノ社 此地古墳の形勢なり祭神定かならす」というのはあるものの、これはのちに御器所八幡宮に移された八幡社ではないかと思う。字北屋敷にあった八幡だ。
 明治19年にどういう経緯で御器所村から吹上の人たちが譲り受けることになったのかは分からない。吹上の人が欲したのに応じたのか、御器所村の側の事情だったのか。



『愛知縣神社名鑑』は少し奇妙なことを書いている。
「社伝によれば”往古は此の地を古井(こび)と称し、清水滾々(こんこん)と吹き出し應神天皇御誕生に際し里人喜び、この清水を献上したと伝える。又此の地は入海の末端で弘治年間(1555-1557)應神天皇の神霊小船に御してこの小丘に漂着せらる。神吹上られ給う意により古井を吹上の里といい、里人天皇との関係ふかきを奉謝し産土神として祭る” 明治5年10月村社に列格して大正11年9月15日指定社となる」



『愛知縣神社名鑑』が、はっきりした記録ではなく、こんな伝承めいた話のみを書くのは珍しい。
 古井の清水を應神天皇が誕生したときに献上したことがあり、戦国時代の弘治年間(1555-1557年)に應神天皇神霊を乗せた小船が吹上に漂着したので村人は産土神として應神天皇を祀ったという。
 この話からすると吹上で應神天皇を祀ったのは戦国時代で、社伝がいうところの御器所村に幕末に建てられた八幡社を明治になって譲り受けたという話と矛盾する。
 どちらが本当でどちらが間違いなのか。両方とも違っているのか。



 吹上の南にこの地方最大規模の円墳である八幡山古墳(地図)がある。5世紀中頃の築造と考えられている。
 かつては吹上公園のあたりに茶臼山古墳と太郎塚があった。それは名古屋刑務所を建てるときに壊されて現存していない。
 南の御器所はかつて物部郷といい、古井は御器所のことで、御器所八幡宮は『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡物部神社だと津田正生はいっている。
 その真偽はともかく、御器所の地名は熱田社に祭祀用の器を納める集団がいたことが由来となっているという説もある。
『愛知縣神社名鑑』がいう應神天皇誕生のときに清水を献上した云々というのは突飛な話に思えるのだけど、尾張国(尾張氏)と應神天皇の関係は深く、建稲種(タケイナダネ)の孫の仲姫(なかつひめ)は應神天皇の皇后(正室)となって仁徳天皇を産んでいる他、尾綱根(天火明命13世孫または14世孫)は應神天皇の大臣を務めるなどしている。
 尾綱根は尾張初代国造・乎止与(オトヨ)の孫で、建稲種の子に当たる。犬山市の針綱神社(式内社/web)で息子の針名根(ハリナネ)とともに祀られている。
 尾綱根の長男で針名根の兄にあたる弟彦(オトヒコ)のとき、應神天皇に尾治連姓を賜り、大臣大連となったとされる。
 八幡山古墳や茶臼山古墳に葬られたのがどういう勢力だったのかは不明ながら、古い時代に應神天皇を祀る社があったとしても不思議ではない。明治19年に御器所村の八幡社を移したという話と古い時代に應神天皇を祀ったという話は別で、それがあわさって伝わったとも考えられる。



 吹上の歴史についてもう少し補足しておくと、名古屋刑務所が吹上に移転してきたのは明治30年(1897年)のことだった。
 もともとは明治6年(1873年)に広小路竪三蔵交差点の南あたりに三ツ蔵懲役場が建てられたのが始まりだった。そこに日本初の監獄精神病室が設置され(明治11年)、明治14年に名古屋監獄署に改称、明治22年に愛知県監獄となり、吹上に移転(明治30年)し、大正11年に名古屋刑務所になった。
 昭和40年(1965年)に若宮大通が建設されることになり、刑務所が引っかかるということで三好町に移転した(昭和37年)。
 その刑務所の跡地にあるのが今の吹上公園だ。昭和44年(1969年)に鶴舞公園の分園として開園した。
 隣の吹上ホール(web)は名古屋市民には馴染みが深い。
 ちなみに、若宮大通の名称は通り沿いにある若宮八幡社から来ている。
 付け加えれば、これは通称で、正式名は名古屋市道矢場町線という。名古屋市道矢場町線といわれても名古屋の人間も全然ピンと来ないのだけど、洲嵜神社南の洲崎橋東交差点から吹上の中町交差点まで続く道がそれに当たる。



 神社は南の若宮大通から少し入ったところにあり、建物に音が遮断されるからか、境内は静かでのんきな空気をたたえている。騒がしい表通りから落ち着いた雰囲気の店に入ってひと息つくみたいな感覚だ。
 外観は明治になってこの場所に移されてからあまり変わってないんじゃないだろうか。
 よく晴れた午後などに訪れるとのんびりした気持ちになれていいんじゃないかと思う。




作成日 2017.1.30(最終更新日 2019.2.16)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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