六所神社(成願寺)

六所明神の正体とは

成願寺六所神社外観

読み方 ろくしょ-じんじゃ(じょうがんじ)
所在地 名古屋市北区安井2丁目14-32 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 村社・十等級
祭神 伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
蛭子命(ひるこのみこと)
 アクセス 地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約34分
駐車場 なし
その他 例祭 10月19日
オススメ度

 北区を中心に、東区、西区に固まっている六所神社の中の一社。名古屋の中でこの一角にだけ六所社が集中しているのは何故なのか。そして、その正体は何なのか。いまだその問いに対する答えは見いだせていない。
 一般的には六柱の神を祀っているからだとか、6つの神社を合祀したから六所社と呼ばれるというのだけど、それはたぶん正しくない。そういう例があるにはあるとしてもむしろそれは例外で、この系列の神社には何かあるではないかと思えてならない。
 六所という名前ではなくても、同じ北区にある式内社とされる別小江神社や庄内川北岸の味鋺神社などの古い神社でさえ、六所明神と呼ばれていた時期がある。
 ある一時期、このあたり一帯で六所社が流行したのか、あるいは何らかの勢力によって上書きされたのか。
 六所明神から元の祭神に戻ったところがある一方、戻らなかった六所社につていは祭神が分からなくなっている。成願寺六所神社のイザナギ・ファミリー六柱は6という数字からの後付けの可能性が高い。別小江神社も今は同じ六柱を祀っているけど、元の祭神は分からない。

 全国にも六所神社という名前の神社がけっこう存在する。
 ひとつのグループとして、六所神社という名前の総社がある。出羽国総社 安房国総社 武蔵国総社 下総国総社 相模国総社 出雲国総社は、それぞれ六所神社と称している。
 総社というのは、その地区の祭神を集めて祀った総合神社のようなものだ。飛鳥時代に始まる律令制において、国司は赴任した先で決められた神社を回って参拝することになっていた。一宮、二宮、三宮などがそれに当たる。
 平安時代になるとそれも大変だということで、国府の近くに総社を作って、そこで参拝して済ますところが増えていく。
 そこから六所の六は数字の六ではなく、録所という意味ではないかという説が生まれたのだけど、これだけ多くの六所神社がある以上、すべてがそうだというのは無理があるし、六という数字を無視することはできない。六には何か特別な意味があったはずだ。

 もうひとつの鍵を握るのが六所明神の存在だ。
 徳川家康の系譜を辿ると、豊田市の奥にある松平郷(web / 地図)にやってきて初代松平氏となる松平親氏(ちかうじ)に行きつく。
 その松平郷には六所山(地図)という信仰の対象とされた山がある。親氏が奥州(宮城県)の鹽竈神社(しおがまじんじゃ / web)の六所宮から六所明神を勧請して山に祀ったことでそう呼ばれるようになった(それまでは吉木山や蜂ケ峰山と呼ばれていた)。
 以降、六所大明神は松平家・徳川家の氏神として崇敬されるととなる。家康の祖父の松平清康は、松平郷の六所大明神を勧請して岡崎に六所神社(web)を創建している。
 六所明神でいうと、北区の大井神社に南北朝時代、奥州から逃れてきた藤原(石黒)重行が鹽竈神社の神像を持ち込んで一緒に祀ったことで六所明神と呼ばれたという話がある。鹽竈神社の神がどうして六所明神と呼ばれるようになったのかは分からないのだけど、中世の人たちにとって六所明神といえば塩竈の神という認識だったようだ。
 石黒重行は尾張国守護の斯波氏に仕えて如意と味鋺の領主になっているから、北区一帯の神社で六所明神を祀ったという可能性は考えられる。
 ただし、大井神社に祀られた六所明神は
事勝国勝長狹命、表筒男命、中筒男命、底筒男命、豊玉彦命、猿田彦命で、北区の六所神社が祀るイザナギ・イザナミのファミリーとは顔ぶれが違っている。

 名古屋市北部どころではない六所神社密集地帯がある。それが静岡県西部の浜松市だ。浜名湖の東の狭いエリアに50社ほど六所神社が固まっている。何故、この地区に異常なほど六所神社が集まっているのか、その理由は分からない。家康は浜松城の城主として長く過ごしているとはいえ、生まれた岡崎城周辺でもなく、隠居した駿府城でもなく、浜松なのが謎だ。

 六所明神とはどんな神なのか、もう少し探ってみたい。
 現在、鹽竈神社の主祭神は塩土老翁神(シオツチノオジ)となっている。『古事記』、『日本書紀』によると、天孫降臨のニニギに自分の国を譲ったり、海幸彦に借りた釣り針をなくして困っている山幸彦に舟を与えてワダツミの宮に案内した神として描かれている他、社伝によると鹿島の神・タケミカヅチ(武甕槌神)や香取の神・フツヌシ(経津主神)が東北地方を征伐する際に道案内をしたとしている。
 航海の神、製塩の神という面を持ち、導きの神ということでサルタヒコ(猿田彦神)ともどこか通じるところがある。
 鹽竈神社は奈良時代以前に創建されたとされる古い社で、陸奥国一宮でありながら『延喜式』神名帳(927年)には載っていない、いわゆる式外社(しきげしゃ)だ。
 鹽竈神社の六所明神は、その名が示す通り仏教的な神だ。明神というのは仏教世界での神の称号で、おそらく早い段階で神仏習合していたものと思われる。
 では、六所明神とは具体的にどんな神なのかというと、これがさっぱり分からない。
 親氏は松平郷に六所明神を勧請して六所神社を建てた。家康も六所神社を大事にしたし、3代家光は岡崎の六所神社を大々的に改修させて100石を与え、御朱印状に「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」と書いている。六所大明神を特別視していたようだ。
 この時代には確かに六所明神という神の存在を共通認識としていたということだ。なのに、現代の我々にはそれがどういう神かという共通理解がない。どの時点で失われてしまったのか。単独の神のことなのか、六柱の神の集合体なのかさえも分からない。

 総社となっている六所神社は、出雲国(島根県松江市)をのぞいて、東京、神奈川、千葉、埼玉、山形と東日本に集中している。関西方面に六所社関連の神社は少ない。
 これは武蔵国総社の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ / web)の影響が考えられる。一宮から六宮まで集めた総社で、起源も古く由緒もある。
 だとすれば、六所社というのは、陸奥国(宮城県)鹽竈神社の六所大明神をルーツとするものと、武蔵国総社(東京都府中市)の大國魂神社の系統の2つのグループに大きく分けられると考えていいだろうか。
 名古屋北東部の六所神社については、すべてをひとまめにして考えるのは危険かもしれない。それぞれ祭神が共通のところも違っているところもあって、どこが元になっているのかは判断がつかない。

 成願寺六所神社の創建に関してはほとんど何も分からない。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「創建は明かではないが、元禄二巳年(1689)12月18日、再興、神職犬飼孫太夫信次の覚書あり、明治11年、村社に列格する。昭和20年5月14日、空襲により社殿、古記録を焼失した」
 分かっているのは、江戸時代前期の1689年に社殿を再興したという覚書があることと、そのときの神官家が犬飼家だったということくらいだ。
 この犬飼信次なる人物が犬飼頼隆の子孫だとすると、創建は室町時代あたりかもしれない。犬飼頼隆は土岐氏の家臣で、南北朝時代に北朝側についた武将だ。安井にやって来て領主となり、戦国時代の
浅野長勝や安井将監などはその子孫に当たるとされる。
 ただし、六所社を創建したのは犬飼氏と決めつけることはできない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の成願寺村の項にはこうある。
「社五ヶ所 内 白山権現 六社大明神 熊野権現 弁才天 山之神 社内壱反八畝歩 前々除 内 白山権現社内壱畝歩 成願寺持分 六社大明神 熊野権現 弁才天 山之神 社内壱反七畝歩 当村 藤太夫持分」
 いずれも前々除とあるので、1608年の備前検地以前からあったことが分かる。
「六所」ではなく「六社」となっているのが少し気になる。安井村は六所大明神となっていて、これは今の別小江神社のことなのだけど、六社と六所を区別しているということは、別系統の神社と見ていたということではないのか。
 現在の味鋺神社は「六所」、大井神社は「六社」、下飯田の六所社は「六所」となっている。社と所をあまり厳密に区別していなかったのかもしれないけど、ここに何かひとつヒントがあるような気もする。

『尾張志』(1844年)には「六所社 成願寺村にあり末社熊野社白山ノ社山神ノ社辨才天あり」とある。
 江戸時代後期までにはそれぞれ独立してあった熊野社や白山を六所社に移したということか。
『尾張徇行記』(1822年)には「社人山田氏書上ニ、六所明神社内六畝三歩 熊野社内東西四間南北六十間 山神社内二畝倶ニ前々除 弁財天社ハ成願寺界内ヘ引ウツセリ」とある。
 いずれにしても、創建についての手がかりは得られない。

 昭和5年(1930年)から矢田川の付け替え工事が始まり、それに伴い、成願寺村は村ごと矢田川の南に移ることになった。村の名前の由来となった成願寺や六所神社もこのとき現在地に移されている。六所神社が昭和6年、成願寺が昭和8年のことだ。
 成願寺は745年に行基が開いたとされる古刹で、鎌倉時代の武将で御家人の山田重忠が中興した他、『信長公記』を書いた太田牛一が育った寺としても知られている。
 矢田川はもともと今より南を流れていて、福徳町、中切町、成願寺あたりは庄内川と矢田川に挟まれた川中村という村だった。
 たびたび水害に遭うため、矢田川の流れをもっと北に移して庄内川と平行するようにして、堤防を築いた。
 地図を見ると、愛知工業高等学校(地図)の敷地が妙に細長くてうねっていて、かつての川の流れの名残が見てとれる。
 今昔マップで明治から昭和にかけての変遷を辿ると様子が分かる。
 このあたりに昔から住んでいる年配の方なら川中にあった川中村競馬場を覚えているだろうか。愛知県初の競馬場として昭和3年(1928年)にオープンするも、川の付け替え工事によってわずか2年、6回の開催だけで閉鎖されてしまった幻のような競馬場だ。
 現在、跡地の一部が庄内川ゴルフ倶楽部になっている。
 六所神社は昭和20年(1945年)の空襲で全焼。昭和44年(1969年)に再建された。

 六所社と六所明神は切り離して考えるべきなのだろうか。六所と六社の違いも気になるところではあるのだけど、なんにしても六所明神や六所社の正体はさっぱり分からないというのが今の結論となる。引き続き調査と検討が必要だ。

 

作成日 2017.3.13(最終更新日 2019.1.4)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

成願寺六所神社もやっぱり分からない神社だった

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