成願寺六所神社

六所神社の正体とは

成願寺六所神社外観

読み方 じょうがんじ-ろくしょ-じんじゃ
所在地 安井二丁目14番32号 地図
創建年 不明
社格等 村社・十等級社
祭神

伊邪那岐命(いざなぎのみこと)
伊邪那美命(いざなみのみこと)
天照皇大神(あまてらすおおみかみ)
須佐之男命(すさのおのみこと)
月読命(つくよみのみこと)
蛭子命(ひるこのみこと)

 アクセス

・地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約34分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 北区を中心に、東区、西区に偏在する六所神社の中の一社。名古屋の中でこの一角にだけ六所社が集中している。そして、その正体がよく分からない。
 一般的には六柱の神を祀っているからだとか、6つの神社を合祀したから六所社と呼ばれるというのだけど、それはたぶん正しくない。そういう例があるにはあるとしてもむしろそれは例外で、この系列の神社には何かあるではないかと思えてならない。
 六所という名前ではなくても、同じ北区にある式内社とされる別小江神社や庄内川北岸の味鋺神社などの古い神社でさえ、六所明神などと呼ばれていた時期がある。
 ある一時期、このあたり一帯で六所社が大流行したのか、あるいは何らかの勢力によって上書きされたのか。
 六所社から元の祭神に戻ったところがある一方、戻らなかった六所社につていは祭神が分からなくなっている。成願寺六所神社のイザナギ・ファミリー六柱は6という数字からの後付けの可能性が高い。別小江神社も今は同じ六柱を祀っているけど、元の祭神は分からない。

 全国にも六所神社という名前の神社がたくさんある。
 ひとつ鍵を握っていそうなのが六所神社という名前の総社がいくつかあることだ。出羽国総社 安房国総社 武蔵国総社 下総国総社 相模国総社 出雲国総社は、それぞれ六所神社と称している。
 総社というのは、その地区の祭神を集めて祀った総合神社のようなものだ。飛鳥時代に始まる律令制において、国司は赴任した先で決められた神社を回って参拝することになっていた。一宮、二宮、三宮などがそれに当たる。
 平安時代になるとそれも大変だということで、国府の近くに総社を作って、そこで参拝して済ますところが増えていく。
 そこから六所の六は数字の六ではなく、録所という意味ではないかという説が生まれたのだけど、これだけ多くの六所神社がある以上、それはちょっと無理がある説だろうし、六という数字を無視することはできない。

 もうひとつの鍵に、六所明神の存在がある。
 徳川家康の系譜を辿ると、豊田市の奥にある松平郷にやってきて初代松平氏となる松平親氏(ちかうじ)に行きつく。
 その松平郷には六所山という信仰の対象とされた山がある。親氏が奥州(宮城県)の鹽竈神社(しおがまじんじゃ)の六所宮から六所明神を勧請して山に祀ったことでそう呼ばれるようになった(それまでは吉木山や蜂ケ峰山と呼ばれていたようだ)。
 以降、六所大明神は松平家・徳川家の氏神として崇敬されるととなる。家康の祖父の松平清康は、松平郷の六所大明神を勧請して岡崎に六所神社を創建している。
 名古屋市北部どころではない六所神社密集地帯がある。それが静岡県西部の浜松市だ。浜名湖の東の狭いエリアに50社ほど六所神社が固まっている。何故、この地区に異常なほど六所神社が集まっているのか、その理由は分からない。家康は確かに浜松城の城主として長く過ごしているとはいえ、生まれた岡崎城周辺でもなく、隠居した駿府城でもなく、浜松なのが謎だ。

 成願寺六所神社の創建に関してはほとんど何も分からない。分かっているのは、江戸時代前期の1689年(元禄二年)に社殿を再興したという覚書があることくらいだ。
 この時期に再建されたということは、創建されたのは江戸時代初期か、もう少しさかのぼるだろうか。江戸幕府を開いた家康にあやかって松平郷や岡崎の六所神社から勧請した可能性はある。
 ただ、もしそうだとしても、どうして名古屋の北部に集中しているのかは分からない。名古屋城から見て北、もしくは北東に当たることとと関係があるのかないのか。

 更に分からないのは、六所大明神の正体だ。
 鹽竈神社の現在の主祭神は塩土老翁神(シホツチノヲヂ)とされている。『古事記』、『日本書紀』では、天孫降臨のニニギに自分の国を譲ったり、海幸彦に借りた釣り針をなくして困っている山幸彦に舟を与えてワダツミの宮に案内した神として描かれている他、社伝によると鹿島の神・タケミカヅチ(武甕槌神)や香取の神・フツヌシ(経津主神)が東北地方を征伐する際に道案内をしたとされる。
 航海の神、製塩の神という面を持ち、導きの神ということでサルタヒコ(猿田彦大神)ともどこか通じるところがある。
 江戸時代以前の祭神については不明としている。
 鹽竈神社は奈良時代以前に創建されたとされる古い社で、陸奥国一宮でありながら『延喜式神名帳』(927年)には載っていない、いわゆる式外社(しきげしゃ)だ。平安時代中期までには確かに存在した由緒ある神社でありながら神名帳に載らなかった有名神社がいくつかある。祇園社(八坂神社)や津島神社もそうで、スサノオの本地とする牛頭天王を祀る仏教色の強い神社だったのがその理由とされる。
 鹽竈神社の六所明神は、その名が示す通り仏教的な神だ。明神というのは仏教世界での神の称号で、おそらく早い段階で神仏習合していたものと思われる。
 では、六所明神とは一体どんな神なのかというと、これがさっぱり分からない。
 親氏は松平郷に六所明神を勧請して六所神社を建てた。家康も六所神社を大事にしたし、3代家光は岡崎の六所神社を大々的に改修させて100石を与え、御朱印状に「六所大明神は東照大権現降誕の地にある霊神なり、是を以て崇敬他と異なり」と書いている。かなり六所大明神を特別視している。
 この時代には確かに六所明神という神の存在を共通認識していたということだ。なのに、現代の我々にはそれがどういう神かという共通認識がない。単独の神のことなのか、六柱の神の集合体なのかさえも分からない。

 総社となっている六所神社は、出雲国(島根県松江市)をのぞいて、東京、神奈川、千葉、埼玉、山形と関東に集中している。
 これは武蔵国総社の大國魂神社(おおくにたまじんじゃ)の影響が大きいと考えられそうだ。一宮から六宮まで集めた総社で、起源も古く由緒もある。
 関西方面には六所社関連の神社は少ないという。
 だとすれば、六所社というのは、陸奥国(宮城県)鹽竈神社の六所大明神をルーツとするものと、武蔵国総社(東京都府中市)の大國魂神社の系統の2つのグループに大きく分けられると考えていいだろうか。
 名古屋東部の六所神社については、すべてをひとまめにして考えるのは危険かもしれない。それぞれ祭神が共通のところも違っているところもあって、どこが元になっているのかは判断がつかない。
 今回、六所神社のルーツが少しだけ見えたものの、相変わらず六所神社については謎という他ない。
 成願寺六所神社にしても、本来の祭神はもはや辿りようがないように思う。

 昭和5年(1930年)に始まる矢田川の付け替え工事に伴い、現在に移された。
 矢田川はもともと、もっと南を流れていて、福徳町、中切町、成願寺あたりは庄内川と矢田川に挟まれた川中村という名前の村だった。
 たびたび水害に遭うため、矢田川の流れをもっと北に移して庄内川と平行するようにして、堤防を築いた。
 地図を見ると、愛知工業高等学校の敷地が妙に細長くてうねっていて、かつての川の流れの名残が見てとれる。
 川中には川中村競馬場があった。愛知県初の競馬場として昭和3年(1928年)にオープンするも、川の付け替え工事によってわずか2年、6回の開催だけで閉鎖されてしまった幻のような競馬場だ。
 現在、跡地の一部が庄内川ゴルフ倶楽部になっている。
 六所神社があるあたりの成願寺という地名は、近くにある成願寺が由来となっている。
 成願寺は745年に行基が開いたとされる古刹で、鎌倉時代の武将で御家人の山田重忠が中興した他、『信長公記』を書いた太田牛一が育った寺としても知られている。
 成願寺も、矢田川の付け替え工事によって六所神社の北東200メートルほどの現在地へと移されてきた。
 明治11年(1878年)、村社に列格。
 昭和6年(1931年)に現在地に遷座。
 昭和20年(1945年)の空襲で全焼。
 昭和44年(1969年)に再建。

 六所神社の正体をめぐる謎については、引き続き調査と検討が必要というのがとりあえずの結論となる。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

成願寺六所神社もやっぱり分からない神社だった

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