六所宮(上飯田)

貴布祢社は六所社に飲み込まれた

上飯田六所宮

読み方 ろくしょ-ぐう(かみいいだ)
所在地 名古屋市北区上飯田南町3丁目97-2 地図
創建年 不明(1599年とも)
旧社格・等級等 指定村社・九等級
祭神 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)
伊弉冉尊(いざなみのみこと)
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
月読尊(つくよみのみこと)
素戔嗚尊尊(すさのおのみこと)
蛭子尊(ひるこのみこと)
アクセス 地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約9分
駐車場 なし
その他 例祭 10月17日
オススメ度

 名古屋北部に点在し、その正体がさっぱり分からない六所社のひとつ。上飯田の六所宮もやっぱりよく分からない。
 創建は1599年(慶長四年)と『北区の歴史』は書いているのだけど、情報源が定かではなく鵜呑みにできない。江戸時代直前の安土桃山時代末に六所社を建てるという状況が上手く理解できない。
 六所社から六所宮に改称したのは昭和56年(1981年)のことなので、特別な理由があるわけではなさそうだ。下飯田などの他の六所社と区別するためだろうか。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「創建は明かではないが、寛永年間(1624-1643)社殿修理の覚書がある。明治5年村社に列格し、大正2年12月10日、字内の神明社、天神社、厳島社、八龍社を境内社に合祀する。大正14年、社殿を改築、昭和15年4月13日供進指定社となる。昭和20年5月、空襲により被災、昭和56年9月造営成る」
 棟札ではなく覚書といいのが心許ないのだけど、情報としては間違っていないだろう。

 ひとつ気になることがある。それは1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』の上飯田村の神社についての記載だ。それはこうなっている。
「社四ヶ所 内 貴布祢明神 神明 天神 弁才天 社内弐反八畝 前々除 瀬子村祢宜 吉太夫持分」
 どうやらこの六所社はもともと貴布祢社(貴船社)だったらしい。

『尾張志』(1844年)にもうひとつヒントがある。
「六所社 貴船社 八王子社 以上三社同地 神明社 天神ノ社 辯才天社 八龍社 上飯田むらにあり」
 六所社と貴布祢社と八王子社が同じところにあるといっている。ということは、もともあったのは貴船社で、江戸時代の中期以降に六所社と八王子社が同じ場所に勧請されて、その三社がどこかの時点で六所社に統合されたということではなかっただろうか。現在の六所社の祭神に貴船の神は入っていないことからすると六所社に飲み込まれてしまった形だ。八王子の神も祭神となっていない。

『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。
「社四ヶ所貴布祢明神・神明・天神・辯才天界内弐反八歩前々除 社人中村数馬書上帳ニ、六社明神社貴布祢明神社大日神社界内三畝廿二歩前々除 神明社内七畝十八歩、天神社内八畝廿四歩、弁才天社内東西二間南北二間八龍社内十二歩イツレモ前々除」
 これを見ると、もともとは六所社よりも貴布祢社の方が主だったように読み取れる。

 この神社の本体が貴船社だとすると、1599年創建というのは遅すぎるように思うのだけどどうだろう。
 前々除となっていることから1608年の備前検地のときにはすでに除地だったということで、1599年創建の神社地を除地とするかという問題がある。年貢諸役を免除する除地とするのは古い由緒のある寺社が建つ土地のことが多い。例外はあるにしてもそれほど多くない。
 上飯田村の集落がいつできたかはよく分からないのだけど、下飯田村が南北朝時代(1336年-1392年)の記録に出てくることからすると上飯田村もその頃にはすでにあったと考えられる。
 この神社が貴布祢社にしろ六所社にしろ、集落の氏神だったとすれば、遅くとも南北朝時代にはあったのではないだろうか。そうであれば前々除というのは当然だ。
 六所社によって貴布祢社が上書きされたというよりも、同地にあった六所社と八王子社が六所社に統合されたという流れだったのだろう。
 となると、いつどの時点で六所社が建てられたのかが問題となる。江戸時代の六所明神であれば、奥州の鹽竈神社(web)か、三河国岡﨑の六所神社(web)あたりから勧請したものかもしれない。
 六所明神とは何かについては成願寺六所神社下飯田六所社のページに書いた。

 この神社は昭和20年の空襲で焼けている。北区のあたりも空襲の被害がけっこうあったところで、焼けた神社もいくつかある。1キロほどしか離れていない下飯田の六所社は焼けなかったようだから、わずかの差で明暗が分かれた。
 境内に「赤心富士」の文字が刻まれた石碑がある。
 第二次大戦の前哨戦となった支那事変(しなじへん)に出征する兵士60人余りを村から送り出すとき、壮行会をこの神社前で行った。
 残された子供たちは出征した人たちが無事に戻ってくるようにと願いを込めて境内に石を積んだ。その積み上がった石を富士山にたとえ、赤心富士と名付け、記念の石碑を建てた。
 赤心(せきしん)とは、いつわりのない心といった意味だ。
 送り出した村の男たちが何人生き残って帰ってきたのかは分からない。神社の社殿は焼夷弾で焼け落ち、赤心富士の石碑は焼け残った。
 神社に祀られているのは、遠い過去の神話の中の神だけではない。

 

作成日 2017.3.30(最終更新日 2019.1.6)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

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