『延喜式』神名帳(927年)に春日部郡高牟神社、『尾張國内神名帳』に従三位上高見天神とある神社の候補のひとつ。 個人的にはここが春部郡高牟神社の可能性はかなり低いと思っている。 まず郡の問題として、ここは山田郡のはずだ。山田郡は庄内川を越えて一部がかなり北まで張り出していたと考えられる。なのに、庄内川より南のこの場所が春日部郡というのは無理がある。いくら庄内川の流れが過去に何度も変わったといっても、ここを春日部郡としてしまうと、ただでさえややこしい山田郡と春部郡の郡境問題の収拾がつかなくなる。 現在の名古屋市北区が庄内川の北に食い込んでいるように、かつての山田郡もそうだった可能性が高い。西区の一部もそうだったはずだ。庄内川の北、西区の洗堰緑地の西にある太乃伎神社(地図)は山田郡とされている。 分かりやすい例として、大井神社(地図)がある。もともとあった場所は現在の地名でいうと大我麻のあたりとされ、そこは山田郡だった。その後、少し東の如意という地名の場所に遷座した。そこは春日部郡だったとされる。つまり、そこの間に郡境があったと考えていいと思う。 郡境の北東側は玉野川が境になっているというのだけど、春日井市の高蔵寺と守山区志段味エリアの境界線はどうだったか定かではない。春日井市にある朝宮神社(地図)や和爾良神社(地図)も山田郡和尓良神社の論社となっているということは、そこでも山田郡は庄内川の北に張り出していたということかもしれない。 逆に春日部郡側から見ると、山田郡が食い込んできているというよりも、味鋺神社(地図)がある味鋺や、味美二子山古墳(地図)がある味美エリアが山田郡の方に食い込んでいるという見方ができる。このエリアは古墳時代に物部関係の本拠だったとされるところだから、例外的に春日部郡に組み込まれたのではないかと推測するけどどうだろう。 物部氏の勢力は奈良時代以降衰えたとはいえ、すぐに絶滅したり尾張氏に完全に飲み込まれたりはしなかったのではないか。その子孫たちが一定の影響力を持って味鋺・味美エリアにいたとしたら、郡境を決める際にその意向が反映さなかったはずがない。 古墳時代から平安時代にかけて官社とされるような神社を創建できる勢力はごく限られている。地方の有力豪族か、祭祀を司る一族か、中央とつながりがある人物または氏族といったあたりだろう。村人の総意で建てられるようなものではない。中央の意向が地方の神社創建に色濃く反映されるようになるのは平安時代以降のことだったと思う。 ある勢力が神社を建てて自分たちの氏神を祀り、その土地で暮らしていた時代、中央からやって来た役人が国の都合だけで郡境を決められただろうか。その地方勢力の意向は無視できなかったのではないか。 それがどういう変遷を経たのかは分からないけど、『延喜式』が編さんされた900年代前半に限っていえば、味鋺・味美エリアは治外法権的に春日部郡に組み込まれていて、山田郡はその東のエリアも深く現・春日井市まで入り込んでいたかもしれない。春日井市中心部から東のエリアは、庄内川を越えれば志段味古墳群がある地区だ。高座山(地図)を挟んで尾張氏系の本拠のひとつだったとされる東谷山(地図)がある。
『愛知縣神社名鑑』は、「創建は養老元年(717年)十一月十五日で高見という称号をいただいた。本殿は昌泰三年(900)九月再建あり」と書く。 これは、明治12年(1879年)に神社が春日井郡長に提出した神社明細帳に書かれている内容を参照したと思われる。少なくとも明治初期に神社側ではそういう認識だったということだ。 717年といえば奈良時代初期だ。平安時代中期の900年に再建されたというから、それだけでも古い神社ということになる。それが本当であれば、『延喜式』神名帳に載るには充分な資格を持つといえる。 しかし、最初に書いたようにここは春日部郡とはいえない。なので、『延喜式』神名帳の春日部郡高牟神社とは違う。 とはいえ、そんな古社を無冠で終わらせるのは惜しい。津田正生は『尾張国神社考』(尾張神名帳集訂考)の中で、高見天神は『延喜式』神名帳にある山田郡羊神社としている。 これはまた、大胆な推理だ。その根拠としてこう書いている。 「瀬所(せこ)と辻村とは矢田川を一條隔(いちじょうへだつ)たれと、もとは一円の地脈(ちみゃく)なり」 「延喜式に羊の字を下したるは誤なるべし」 続けて『張州府志』や里の老人の証言として「辻村は旧(もと)は日辻(ひつじ)と称しに、折々火災(ほやけ)ありて後、火の語(ことば)を忌みて辻村と更(あらた)むという」としつつ、「瀬古村に高見(たかみ)の名残あるを思へば火辻の由(ゆえよし)なるべし。日置(ひをき)、火辻は同語なるへし」と書く。 瀬古も辻村も矢田川を挟んでもとは同じ地区で、羊神社の羊の字は間違いであり、ひつじ神社は瀬古の天神というのが津田正生の主張だ。 日置と火辻が同じ言葉というのがちょっとよく分からない。高牟は高見から転じたということのようだけど、高見の語源は何だったのか。文字通りであれば高いところから見るということだろうけど、「高見という称号をいただいた」となると何か特別な意味があったのだろう。 ちなみに、千種区今池の高牟神社も『延喜式』神名帳の愛智郡高牟神社とされているのだけど、津田正生は古井村は山田郡だから古井村の八幡(現・高牟神社)は違うといっている。 今池の高牟神社は『尾張國内神名帳』では高牟久天神となっているから、同じ高牟神社でも瀬古の高見天神とは由来が別かもしれない。 瀬古の高牟神社を山田郡羊神社とするかどうかは私には判断がつかない。
春部郡高牟神社の論社としては、ここ以外に春日井市東山町の松原神社(地図)、春日井市玉野町の五社神社(地図)、北名古屋市高田寺の白山神社(地図)、西春日井郡豊山町の八所神社(地図)が挙げられている。 明治に入って式内社の再調査をした結果をまとめた『特選神名牒』では、「高田村白山社は取がたし。勝川村、下野村にもありといい、豊場村八所明神という言い伝えもあるも、証なし」としている。 羊神社の項では、「瀬古村の天神を羊神社とする言い伝えはある」としつつ「証なければ取がたしと云り」とする。 要するに分からないということだ。 『尾張志』では瀬古の地名の由来について「瀬古は勢子にて」と書いている。 勢子(せこ/せご)というのは、狩猟を行う時に野山の野生動物を追い込んだりする役割の人たちのことだ。その勢子たちが住んでいた村ということで、それが村名になったということだろう。 別の説として、瀬は「背」、古は「所」で、「裏手」を意味するというものもある。
タカミムスビ(高皇産靈命)は、高牟神社と称する神社が祭神としているところは多い。松原神社、白山神社がそうで、千種区今池の高牟神社はタカミムスビとカミムスビ(神皇産霊神)を祀るとする。 もともと本当にそうだったのか、高牟神社を名乗ることで後からそうしたのかは分からない。 古い時代の神社を創建するに当たって、タカミムスビというのはひとつの定番の祭神だったようだ。一般的に神社においてはアマテラスよりも古い。名前の通りムスビ(結び)の神様というのが広く共通する一般認識だっただろうか。 古代の人々にとって『古事記』、『日本書紀』で描かれている神や神話についてどこまで一般常識として知識を共有していたのだろう。タカミムスビを祀る神社といえばどういう神社ということかすぐに理解できたのだろうか。現代人の感覚からすると、アマテラスやスサノオ、イザナギ、イザナミなどと比べて分かりづらい神となっている。
松原神社がある下原地区(旧下原村)ではこんな言い伝えがあるという。 ”昔下原のお宮様は高牟神社と言っていたそうだが、瀬古村に御神体を盗まれたので名を変えた” 瀬古高牟神社に伝わるとされる古い棟札や創建にまつわる由緒書きは後年に作られたり書かれたりしたものだという話もある。 松原神社は、明治4年(1872年)に犬山縣が『尾張國内神名帳』にある松原神社はここだと決めてしまったため、松原神社を名乗ることになった。江戸時代は高牟稲荷大明神などと称していた。 『尾張志』では松原社は「其所今うせて知る人なし」と書いているのに、どういう根拠といきさつで高牟稲荷を松原神社としてしまったのだろう。そのことが余計な混乱を招いてしまった。 春日部郡高牟神社は現・松原神社でいいんじゃないかと思うけどどうだろう。 『特選神名牒』では証(あかし)がないから信じないとしているけど、そんなことを言ったら式内社であるという確固たる証拠を持っている神社なんてほとんどない。現在式内社とされている神社の大部分はその可能性が高いというだけで確実としているわけではない。天皇陵とされる古墳の実際の埋葬者がその通りかどうか分からないのと同じくらいあやふやなものと考えていい。
瀬古高牟神社には天満宮でお馴染みの寝そべり牛がいるのに天満社がないことを不思議に思った人もいると思う。一応、本社で菅原道真も祀られていることになっている。 かつてこの神社に菅原道真の画像の軸があった。平安末から鎌倉時代前期にかけて活躍した武人で鎌倉幕府御家人の山田重忠が納めたものという。 山田忠重は北区の山田あたりを本拠にしており、信心深い人でいくつかの寺を建てたり神社を修造したりしているから、この話もある程度信憑性がある。 1221年に承久の乱で朝廷側について戦って京で命を落としたときは56歳くらいだったとされる。逆算すると生まれ年は1165年くらいだ。 この話が本当であれば、少なくとも鎌倉時代初期には瀬古高牟神社はあったということになる。 菅原道真は平安時代前期から中期に生きた人だ。845年生まれで903年に没している。 ちなみに、安倍晴明はそのあと、921年生まれで1005年没の平安時代中期の人だ。 江戸時代後期の天保の頃(1830年-1844年)、瀬古高牟神社の神職はお金に困って道真の画像を質入れして金の工面をした。しかし、これを受け戻すことができず、道真画像は質屋のものになってしまう。 話を聞いた村人たちが、質屋に行き、なんとか返してくれるように説得するも話し合いがつかず、ついには裁判沙汰となり、神社と質屋で半年ごとに所有するということで折り合いを付けることになった。 質屋は矢田川の南にあり、半年ごとに道真画像を運ぶ村人たちがしずしずと渡ったことから天神橋と名付けられたと伝わる。 この画像がどうなったかというと、第二次大戦の名古屋空襲によって社殿もろとも燃えてなくなってしまったのだった。命からがら防空壕に逃げ込むのが精一杯で道真の画像どころではなかったのかもしれないけど、そんなにかさばるものでもないし、神社にとっても大事なものなのだから、持って逃げて欲しかった。
江戸時代の瀬古村には天神の他に山神、白山、神明二社があった。 『寛文村々覚書』(1670年頃)には瀬古村祢宜の吉太夫持分で、前々除とあるから、どれも江戸時代以前からあった神社だ。 『尾張徇行記』(1822年)や『尾張志』(1844年)も同じようなことを書いている。 明治41年(1908年)に字右京浦1996の神明社と山神社(字屋敷93)が、昭和5年に字柴荷の白山社と字屋敷の神明社が高牟神社の境内に移された。 明治12年の神社明細帳によると、神明は元禄4年(1691年)の勧請としている。 境内社として熱田社と金毘羅社があると書いているのだけど、これは今も残っているだろうか。 高牟神社の東に隣接する石山寺は鎌倉時代の1245年頃に創建されたとされる天台宗の寺で、数多くあった尾張の天台宗寺院では数少ない生き残りとなっている。
結論として瀬古の高牟神社がどういう神社かというと、まったく分からないというのが正直なところだ。個人的には春日部郡高牟神社とは思っていない。では、いつ誰が何の神を祀って建てたのかというと、全然想像がつかない。たとえ山田郡羊神社だとしても、羊神社自体よく分からない神社だ。 地理的なことをいえば、北の庄内川と南の矢田川が合流する手前の平地で、縄文時代の遺跡や古墳が点在する区域からは少し外れている。矢田川の右岸堤防沿いということで、水害の危険性も高く、古代からここに神社があった可能性は低いのではないか。 奈良時代前期の717年創建という由緒も、松原神社が盗まれたといっているのが気になるところだ。何の理由もなくそんな言いがかりを付けるとも思えない。 ただ、山田重忠が道真の画像を奉納したくらいだから、鎌倉時代初期には由緒ある神社とされていたと考えると、式内社といっていいほどの古社なのかもしれない。
作成日 2017.3.29(最終更新日 2021.4.3)
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