瀬古高牟神社

ここは春部郡でも高牟神社でもない気がする

瀬古高牟神社

読み方 せこ-たかむ-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区瀬古東1丁目  地図
創建年 伝717年(奈良時代初期)
社格等

郷社・八等級

祭神

高皇産靈命(たかみむすびのみこと)

素盞嗚命(すさのおのみこと)
伊邪諾命(いざなぎのみこと)
大山祇命(おおやまつみのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
菊理媛命(くくりひめのみこと)

 アクセス

・地下鉄上飯田線「上飯田駅」から徒歩約27分
・JR中央本線「新守山駅」から徒歩約25分
・駐車場 あり(北側裏手)

webサイト  
オススメ度

『延喜式神名帳』に春部郡高牟神社、『国内神名帳(尾張国神名帳)』に従三位上高見天神とある神社の候補のひとつ。
 いきなりだけど、ここが春部郡高牟神社の可能性はほぼない、もしくはかなり低いと思う。
 普通に考えてここは山田郡のはずだ。山田郡は庄内川を越えて一部がかなり北まで張り出している。なのに、庄内川より南が春部郡というのはやはり無理がある。いくら庄内川の流れが過去に何度も変わったといっても、ここを春部郡としてしまうと、ただでさえややこしい山田郡と春部郡の郡境問題の収拾がつかなくなる。
 現在の名古屋市北区が庄内川の北に食い込んでいるように、かつての山田郡もそうだった可能性は高い。西区の一部もそうだったはずだ。庄内川の北、西区の洗堰緑地の西にある太乃伎神社(地図)は山田郡とされている。
 分かりやすい例として、大井神社地図)がある。もともとあった場所は現在の地名でいうと大我麻のあたりとされ、そこは山田郡だった。その後、少し東へ移って如意という地名の場所に遷座した。そこは春部郡だったとされる。つまり、そこの間に郡境があったと考えていいと思う。
 郡境の北東側は玉野川が境になっているというのだけど、春日井市の高蔵寺と守山区志段味エリアの境界線はどうだったのだろう。春日井市にある朝宮神社(地図)や和爾良神社(地図)も山田郡和尓良神社の論社となっているということは、そこでも山田郡は庄内川の北に張り出していたということなのか。
 逆に春部郡側から見ると、山田郡が食い込んできているのではなく、味鋺神社地図)がある味鋺や、味美二子山古墳(地図)がある味美エリアが山田郡の方に食い込んでいるという見方ができる。このエリアは古墳時代に尾張物部氏の本拠だったとされるところだから、特例的に春部郡に組み込まれたのではないかと推測するけどどうだろう。
 物部氏の勢力は奈良時代以降衰えたとはいえ、すぐに絶滅したり尾張氏に完全に飲み込まれたりはしなかったのではないか。その子孫たちが一定の影響力を持って味鋺・味美エリアにいたとしたら、郡境を決める際にその意向が反映さなかったはずがない。
 古墳時代から平安時代にかけて、—年代でいえば500年代から800年代にかけて—神社を創建できる勢力はごく限られている。地方の有力豪族か、祭祀を司る一族か、中央とつながりがある人物または氏族といったあたりだろう。村人の総意で建てられるようなものではない。中央の意向が地方の神社創建に色濃く反映されるようになるのは平安時代以降のことだったと思う。
 ある勢力が神社を建てて自分たちの神を祀り、その土地で暮らしていた時代、中央からやって来た役人が国の都合だけで郡境を決められただろうか。その地方勢力の意向は無視できなかったのではないか。
 それが200年ほどの間にどういう変遷を経たのかは分からないけど、『延喜式』が編さんされた900年代前半に限っていえば、味鋺・味美エリアは治外法権的に春部郡に組み込まれていて、その東のエリアも深く現・春日井市まで入り込んでいたかもしれない。春日井市中心部から東のエリアは、庄内川を越えればそこは志段味古墳群がある地区だ。高座山(地図)を挟んで尾張氏の本拠のひとつだったとされる東谷山(地図)がある。

 瀬古高牟神社の創建は、養老元年(717年)11月15日とされている。それが本当だとすると、神名帳に載るには充分な資格を持った古社ということになる。
 そんな古社を無冠で終わらせるのは惜しい。津田正生は『尾張国神社考(原題・尾張神名帳集訂考)』の中で、高見天神は『延喜式神名帳』にある山田郡羊神社としている。
 これはまた、大胆な推理だ。もちろん、津田正生なりの根拠があって書いているのだろうけど、すぐには信じられない。津田正生が『尾張国神社考』を発表したのが1850年のこと。それから160年以上経った今、誰もこの説を唱えていないということは公には却下されているということなのだろう。ただ、一考に値する面白い説だとは思う。その根拠としてこう書いている。
「瀬所(せこ)と辻村とは矢田川を一條隔(いちじょうへだつ)たれと、もとは一円の地脈(ちみゃく)なり」
 続いて、「延喜式に羊の字を下したるは誤なるべし」とし、
『張州府志』や里の老人の証言として「辻村は旧(もと)は日辻(ひつじ)と称しに、折々火災(ほやけ)ありて後、火の語(ことば)を忌みて辻村と更(あらた)むという」としつつ、「瀬古村に高見(たかみ)の名残あるを思へば火辻の由(ゆえよし)なるべし。日置(ひをき)、火辻は同語なるへし」と書いている。
 後半がちょっとよく分からないのだけど、瀬古も辻村も矢田川を挟んで同じ地区で、羊神社の羊の字は間違いで、ひつじ神社は瀬古の天神のことだということが言いたかったようだ。私には判断がつかない。
 津田正生は春部郡高牟神社は、勝川宿の天神といっている。それが現在の勝川天神(地図)のことを指しているのかどうかは分からない。

 春部郡高牟神社の論社としては、これ以外に春日井市東山町の松原神社(地図)、春日井市玉野町の五社神社(地図)、北名古屋市高田寺の白山神社(地図)、西春日井郡豊山町の八所神社(地図)が挙げられている。
 明治に入って式内社の再調査をした結果をまとめた『特選神名牒』では、「高田村白山社は取がたし。勝川村、下野村にもありといい、豊場村八所明神という言い伝えもあるも、証なし」としている。
 羊神社の項では、「瀬古村の天神を羊神社とする言い伝えはある」としつつ「証なければ取がたしと云り」とする。
 要するに分からないということだ。
『尾張志』では瀬古の地名の由来について「瀬古は勢子にて」と書いている。
 勢子(せこ/せご)というのは、狩猟を行う時に野山の野生動物を追い込んだりする役割の人たちのことだ。その勢子たちが住んでいた村ということで、それが村名になったということだろう。
 別の説として、瀬は「背」、古は「所」という意味で、「裏手」を意味するというものもある。
 江戸時代には瀬古高牟神社は高見天神と称していた。高見は創建のときにもらった称号という。

 祭神のタカミムスビ(高皇産靈命)は、高牟神社を称する神社の定番というか決まり事のようになっていて、論社とされる神社でも松原神社、白山神社がタカミムスビを祀るとしている。千種区の式内社・高牟神社もそうだ。
 それがもともと本当にそうだったのか、高牟神社を名乗ることで後からそうしたのかは分からない。
 ただ、古い時代の神社を創建するに当たって、タカミムスビというのはひとつの定番の祭神だったようだ。一般的に神社においてはアマテラスよりも古い。名前の通りムスビ(結び)の神様というのが広く共通する一般認識だっただろうか。
 古代の人々にとって『古事記』、『日本書紀』で描かれている神や神話の物語についてどこまで一般常識として知識を共有していたのだろう。タカミムスビを祀る神社といえばどういう神社ということかすぐに理解できたのだろうか。現代人の感覚からすると、アマテラスやスサノオ、イザナギ、イザナミなどと比べて分かりづらい神となっている。

 松原神社がある下原地区(旧下原村)ではこんな言い伝えがあるという。
「昔下原のお宮様は高牟神社と言っていたそうだが、瀬古村に御神体を盗まれたので名を変えた」
 瀬古高牟神社に伝わるとされる古い棟札や創建にまつわる由緒書きは後年に作られたり書かれたりしたものだという話もある。
 松原神社は、明治4年に犬山縣が『尾張国神名帳』にある松原神社はここだと決めてしまったため、松原神社を名乗ることになった。江戸時代は高牟稲荷大明神などと称していたという。
『尾張志』では松原社は「其所今うせて知る人なし」と書いているのに、どういう根拠といきさつで高牟稲荷を松原神社としてしまったのだろう。そのことで余計な混乱を招いてしまった。
 瀬古高牟神社が山田郡羊神社かどうかはさておき、春部郡高牟神社は現・松原神社でいいんじゃないかと思うけどどうだろう。
『特選神名牒』では証(あかし)がないから信じないとしているけど、そんなことを言ったら式内社であるという確固たる証拠を持っている神社なんてほとんどない。実際、現在式内社とされている神社の大部分はその可能性が高いというだけで確実としているわけではない。天皇陵とされる古墳の実際の埋葬者がその通りかどうかというくらいあやふやなものと考えていい。

 瀬古高牟神社には天満宮でお馴染みの寝そべり牛がいるのに天満社がないことを不思議に思った人もいると思う。菅原道真も祀られていない。
 しかし、かつてこの神社には菅原道真の画像の軸があった。平安末から鎌倉時代初期にかけて活躍した武人で鎌倉幕府御家人の山田重忠が納めたものという。
 山田忠重は北区の山田あたりを本拠にしていて、信心深い人でいくつかの寺を建てたり神社を修造したりしているから、この話も信憑性がある。
 1221年に承久の乱で朝廷側について戦って京で命を落としたときは56歳くらいだったとされる。逆算するとうまれ年は1165年くらいだ。
 つまり、鎌倉時代初期には瀬古高牟神社があったと見ていい。
 菅原道真は平安時代前期から中期に生きた人だ。845年生まれで903年没。ちなみに、安倍晴明はそのあと、921年生まれで1005年没の平安時代中期の人だ。
 江戸時代後期の天保の頃(1830年-1844年)、瀬古高牟神社の神職はお金に困って道真の画像を質入れして金の工面をした。しかし、これを受け戻すことができず、道真画像は質屋のものになってしまう。
 話を聞いた村人たちが、質屋に行き、なんとか返してくれるように説得するも話し合いがつかず、ついには裁判沙汰となり、神社と質屋で半年ごとに所有するということで折り合いを付けることになった。
 質屋は矢田川の南にあり、半年ごとに道真画像を運ぶ村人たちがしずしずと渡ったことから天神橋と名付けられたと伝わる。瀬古高牟神社が高見天神と呼ばれたのもここから来ている。
 この画像がどうなったかというと、第二次大戦の名古屋空襲によって社殿もろとも燃えてなくなってしまったのだった。命からがら防空壕に逃げ込むのが精一杯で道真の画像どころではなかったのかもしれないけど、そんなにかさばるものでもないし、神社にとっても大事なものなのだから、持って逃げて欲しかった。
 せめて道真を合祀したらどうだったのだろうと思うけど、それもしなかったのは何か理由があるのだろうか。

 郡境問題と式内社問題の両方を抱える神社だけど、結局のところ結論は出ないという結論に落ち着くのだった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

瀬古の高牟神社と石山寺を再訪する

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