八幡社(栄生町)

今市場から引っ越してきて400年

栄生町八幡社境内と拝殿

読み方 はちまん-しゃ(さこ-ちょう)
所在地 名古屋市中村区栄生町29-6 地図
創建年 不明
社格等  村社・十等級
祭神

應神天皇(おうじんてんのう)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)

アクセス

・地下鉄東山線「本陣駅」から徒歩約10分
・名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約14分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 栄生町にある八幡社なので、他と区別するため栄生町八幡社と呼ぶことにする。
 もともとあったのは今市場だったという。現在の名古屋城があるあたりだ。名古屋城築城の際に移された神社のひとつということになる。

 名古屋城の築城が始まったのが1610年。
 その前身となる那古野城が建てられたのは1520年代とされる。
 今川一族の那古野氏の領地に今川氏親が城を築き、息子の氏豊を那古野氏の養子として城主に据えた。
 このときはまだ柳ノ丸と呼ばれる砦だったと考えられている。
 1532年、信長の父・信秀がここを奪取し、増築して那古野城と名付けた。信長はここで生まれ、青年時代まで那古野城主として過ごすことになる。
 信長が清洲城に移ってほどなくして那古野城は廃城となったようで、しばらく放置されていた。
 ただ、その前からなのか後からなのか、このあたりに多くの寺や神社があったことが古い絵図から見てとれる。
 今市場というのは文字通り物を売り買いする市場のことで、中市場、下市場もあったというから、人が多く集まる地だったようだ。
 名古屋城築城当時の1600年代初期に描かれたとされる絵図には、のちの名古屋城の二の丸となった場所に古城跡と記され、今川氏豊居、柳之丸、信秀止宿などの記載がある。
 道は、城の西側に北の清洲と南の熱田をつなぐ美濃路があり、東側には小田井方面と江戸方面とむすぶ後の飯田街道がある他、城の南を東西に道が走っている。
 神社は、三の丸の場所に天王(後の那古野神社)と八王子が並び、少し離れた南東に若宮とある。現在でいうと愛知県警察本部か、名古屋法務局があるあたりだろうか。
 城郭内の北東に荒神、北西に天神と山神が描かれている。
 城郭の外、ふけ(深井)と呼ばれた部分の北西に宗像社があり、だいぶ離れた北東に深島神社がある。
 この絵図には八幡は描かれていない。

『愛知縣神社名鑑』は栄生町八幡社についてこう書いている。
「元今市場に鎮座のところ慶長十五年(1610年)名古屋城築城の用地となるため普請奉行佐久間河内守御神勅を乞い、本社と天地社をこの地に遷し祀る」
 佐久間河内守というのは、佐久間政実(さくままさざね)のことで、秀吉の家臣からのちに家康に従い、徳川政権では普請奉行を務めた人物だ。
 関ヶ原の戦いでは東軍として参加し、伏見奉行に就任。駿府城の普請に関わった後、名古屋城築城の際は普請奉行5人(山城宮内小輔忠久、滝川豊前守忠征、村田権右衛門某、牧助右衛門長勝)のひとりとして築城責任者の任に当たった。
 天王社や若宮を移すことになったとき、神籤(みくじ)を引いたのも佐久間政実だった。
 当初は天王社も若宮も外に移す予定だったのが、天王社は何度神籤を引いても移してはならないと出たため、城郭内に残されることとなり、若宮は若松町(中区栄)に移されることが決まった。
 八王子社は清水へ、八幡社は栄生になったということだ。
 名古屋城から見ると、若宮は南2.3キロ、八王子は北東1.8キロ、八幡社は西に3キロの地点ということになる。場所についても神籤で決まったことなのか、別の意図があったのかは分からない。

 それにしても、今市場というのはどういう場所だったのかが気になる。
 熱田台地ということでいうと北端に当たる。古代、北と西は海だった。
 南端近くに熱田神宮があり、その北に尾張氏のものとされる断夫山古墳と白鳥古墳がある。
 その北には高座結御子神社があり、その周辺には高蔵貝塚や高蔵古墳群がある。
 中央部の金山駅周辺にもいくつかの集落があり、廃寺となった尾張元興寺があったことが分かっている。
 その北、大須近辺にも大須二子山古墳や那古野山古墳があった。
 熱田台地の古墳の北限というと、大須北東の新栄にある白山神社古墳ということになるだろうか。
 白山神社古墳は尾張氏ではなく物部氏の古墳ではないかという説がある。古井村(千種区)には物部郷があり、物部氏ゆかりとされる物部神社などもある。
 熱田台地北部では古墳や集落は見つかっていない。見つかっていないからといってなかったということではないにしても、ここまで尾張氏の勢力は及んでいなかったということだろうか。
 室町時代まで今市場一帯を治めていたのは那古野氏と考えられている。
 鎌倉時代末、足利氏によって尾張国那古野荘の直轄管理を任されたのが始まりとされる。
 北条家や今川家とも血縁関係や婚姻関係があり、今川本家からみると庶流にあたる家系だったようだ。
 そういうことを考えると、今市場の地が開発されたのは鎌倉から室町期になるのだろうかとも思うのだけど、若宮八幡社の縁起では創建は天武天皇時代まださかのぼるという。西暦でいうと600年代後半だ。天王社もかなり古いとされている。
 だとすれば、飛鳥時代には尾張氏とは別の勢力が今市場一帯にあったと考えた方がいいかもしれない。
 古墳時代から飛鳥、奈良、平安時代にかけての熱田台地北部の情勢や変遷がなかなか見えてこない。

 『愛知縣神社名鑑』にある天地社というのも絵図には描かれていない。
 八幡社とは別の場所に移されたようで、明治40年に本社に合祀されたという。祭神のイザナギは、この天地社で祀られていた。
 境内に残る「元和二年(1616年)八月吉田」銘の石燈篭は、遷座された当時のものとされる。
『尾張志』も見ておくと、栄村の項に次のようにある。
「八幡社
 天地神ノ社 伊弉諾尊を祭ると云う 末社稲荷社あり
 六所社 是は神明八幡白山社宮司金毘羅役小角像と六体あることから社号とす
 天王社 境内に神明社あり」
 八幡社と天地社が別の神社としてあったことが確認できる。
 六所社は、ひょっとすると六生社のことだろうか。だとすると、六生社の現在の祭神シオツチノオジは後付けで、もともとは6つの神社が集まって六所社だったということになる。ここでいう六所社と六生社が同じ神社のことを言っているのかどうか分からないので保留とする。
 天王社が今のどの神社のことなのかはちょっと分からない。現在の栄生町や近辺にそれに当たる神社はなさそうだ。もしかすると、境内社になっている津島社がそれだろうか。

 境内の一角に小山が築かれており、猿田彦神社、御嶽神社、三笠山神社がある。
 御嶽先達の霊神の石碑が建ち並び、不動明王像や地蔵象もあり、ちょっと不思議な光景となっている。
 三笠山神社も御嶽山関係の神社だ。
 岩崎御嶽山には浅野祥雲作の猿田彦のコンクリ像があるけど、サルタヒコも御嶽信仰とどこかでつながっているのだろう。
 いい神社だけど、あまり八幡社らしくないなという感想を抱いて神社をあとにした。
 背の低い木製の二の鳥居が格好いい。あの鳥居でこの神社のことを記憶することになりそうだ。
 中村区は八幡社が多いから区別をつけて覚えておくのが大変だ。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

ちょっとユニークでちょっといい栄生町八幡社

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