八幡社(栄生町)

今市場から引っ越してきて400年

栄生町八幡社境内と拝殿

読み方 はちまん-しゃ(さこ-ちょう)
所在地 名古屋市中村区栄生町29-6 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 指定村社・十等級
祭神 應神天皇(おうじんてんのう)
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
アクセス 地下鉄東山線「本陣駅」から徒歩約10分
名鉄名古屋本線「栄生駅」から徒歩約14分
駐車場 なし
その他 例祭 10月8日
オススメ度

 この神社はもともと今市場にあって、1610年に名古屋城(web)が築城される際、天地社とともに栄生のこの地に移されたという。ほぼ真西に3キロほど移動させたことになる。
『愛知縣神社名鑑』はそのあたりについてこう書いている。
「元今市場に鎮座のところ慶長十五年(1610)名古屋城築城の用地となるため普請奉行佐久間河内守御神勅を乞い、本社と天地社をこの地に遷し祀る。境内に元和二年(1616)八月吉田銘の石灯篭あり。鎮座当初建立したものなり。その後は産土神として崇敬あつく、明治5年、村社に列し、明治40年10月7日、同町二番地無格社天地社を本社に合祀する。昭和2年4月18日、供進指定社となる」

 しかし、名古屋城築城以前の様子を描いた絵図には八幡や天地といった社は描かれていない。
 その後名古屋城三の丸となる場所に天王(那古野神社)と八王子(八王子神社春日神社が並び、少し離れた南東に若宮(若宮八幡社)がある。
 城郭内の北西にある天神と山神は、今の武島天神社山神社(上宿)に当たる。
 城郭内北東にある荒神は把握できていない。
 
城郭の外、深井(ふけ)と呼ばれた場所の北西にある宗像社は宗像神社(浄心)なのかそうではないのかはっきりしない。
 北東の離れた場所に描かれている深島神社は今の深島神社(柳原)だろう。
 今市場に八幡と天地社があったという情報はない。八幡は八幡ではなかった可能性もあるけど、それにしても不明としかいえない。
 天地社の祭神は伊弉諾命(イザナギ)となっているけど、これも本来の祭神だったかどうかは定かではない。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の栄生村の項を見るとこうなっている。
「社四ヶ所 社内年貢地
 明神 天王 祢宜 熱田春大夫持分
 天神 八幡 祢宜 名古屋若宮主膳持分」
 このうち、明神は六生社、天神は土江神社、八幡がこの栄生町の八幡社だろう。
 天王が今の何神社なのかが分からない。どこかの時点で別の場所に移されたか、合祀されただろうか。

『尾張徇行記』(1822年)も『寛文村々覚書』と同じく明神、天王、天神、八幡を挙げている。気になるのがこの部分だ。
「府志曰、天王祠若宮八幡祠天神祠倶在同村」
 府志は『張州府志』(1752年)のことで、その中では天王、若宮八幡、天神があるといっている。八幡はもともと若宮だったのか、後に若宮八幡になったのか判断がつかない。

『尾張志』(1844年)はまた違うことを書いている。
「八幡ノ社 社人古川式部助
 天地神ノ社 伊弉諾尊を祭ると云へり末社稲荷社あり
 六所ノ社 是は神明八幡白山社宮司金毘羅役小角像と六軀あるを總いふ社號也
 天王ノ社 境内に神明ノ社あり」
 ここで初めて天地神社が出てくる。江戸時代後期の時点ですでにイザナギを祀るという認識だったようだ。

『愛知縣神社名鑑』は栄生町2番地にあった天地社を明治40年に八幡社に合祀したといっている。
 今昔マップの1888-1898年を見ると、2番地は栄生村の北東端に当たる。八幡があるのは集落の西南端だ。

 名古屋城の築城が始まったのが1610年。
 その前身となる那古野城が建てられたのは1520年代とされる。
 今川一族の那古野氏の領地に今川氏親が城を築き、息子の氏豊を那古野氏の養子として城主に据えた。
 このときはまだ柳ノ丸と呼ばれる砦だったと考えられている。
 1532年、信長の父・信秀がここを奪取し、増築して那古野城と名付けた。信長はここで生まれ(勝幡城生まれ説もある)、青年時代まで那古野城主として過ごすことになる。
 信長が清須城(web)に移ってほどなくして那古野城は廃城となったようで、しばらく放置されていた。
 それ以前なのか後からなのか、このあたりに多くの寺や神社が集まっていたことが古い絵図によって知ることができる。若宮や八王子などは飛鳥時代創建と伝わっており、天王は平安時代中期に醍醐天皇の勅命で建てられたという。
 今市場というのは文字通り物を売り買いする市場のことで、中市場、下市場もあったというから、人が多く集まる地だったようだ。
 道は、城の西側に北の清須と南の熱田をつなぐ美濃路があり、東側には小田井方面と江戸方面とむすぶ後の飯田街道があった他、城の南を東西に道が走っていた。

『愛知縣神社名鑑』が書いている普請奉行の佐久間河内守は、佐久間政実(さくままさざね)のことで、秀吉の家臣からのちに家康に従い、徳川政権では普請奉行を務めた人物だ。
 関ヶ原の戦いでは東軍として参加し、伏見奉行に就任。駿府城の普請に関わった後、名古屋城築城の際は普請奉行5人(山城宮内小輔忠久、滝川豊前守忠征、村田権右衛門某、牧助右衛門長勝)のひとりとして築城責任者の任に当たった。
 天王や若宮を移すことになったとき、神籤(みくじ)を引いたのも佐久間政実だった。「御神勅を乞い」というから八幡と天地社を移したのも佐久間政実だったということだろう。

 以上を踏まえた上で、あらためて今市場にあった八幡と天地社について考えてみるのだけど、やはりよく分からないというしかない。八幡と天地社が同時代のものとは限らないし、八幡はもともと八幡ではなかったかもしれない。
 これだけ多くの神社が集まっていた今市場という地区は特別だ。八幡も天地社も、村の鎮守といった神社ではなさそうだ。
 それにしてもこれらの神社について何も伝わっていないのはどういうことなのか。何らかの歴史が秘められているのは間違いなそうだけど、それを掘り起こすのは容易ではない。現在の八幡社に縁起がどこまで伝わっているだろう。

 境内の一角に小山が築かれており、猿田彦神社、御嶽神社、三笠山神社がある。
 御嶽先達の霊神の石碑が建ち並び、不動明王像や地蔵象もあり、ちょっと不思議な光景となっている。
 三笠山神社も御嶽山関係の神社だ。
 日進市の岩崎御嶽山には浅野祥雲作の猿田彦のコンクリ像があるから、サルタヒコも御嶽信仰とどこかでつながっているのだろう。

 いい神社だけど、八幡社らしくないという感想を抱いて神社を後にした。
 背の低い木製の二の鳥居が格好いい。あの鳥居でこの神社のことを記憶することになりそうだ。
 当初からなのか、建て替えたときにそうなったのか、社殿は東向きに建てられている。何か意図があっただろうか。

 

作成日 2017.5.30(最終更新日 2019.4.24)

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