社宮司社(須賀町)

将門かサルタヒコかクナトか

須賀町社宮司社

読み方 しゃぐうじ-しゃ(すか-ちょう)
所在地 名古屋市熱田区須賀町41 地図
創建年 不明
社格等 村社・十五等級
祭神 猿田彦命(さるたひこのみこと)
岐之神(くなとのかみ)
八衢彦神(やちまたひこのかみ)
八衢媛神(やちまたひめのかみ)
アクセス

・地下鉄名城線「伝馬町駅」から徒歩約10分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 いくつかの民間信仰が重なって絡まった神社で、その実態は分かりづらい。
 一般的に社宮司社というとミシャクジ信仰に端を発したものが多い。石神を拝んだり、ヒシャクに願いを書いて奉納したりといったものだ。
 しかし、ここはそれだけではなさそうだ。
 古くからこの神社を知る地元の人は「おしゃぐりさん」と呼び、江戸時代は三狐神社(さごじのやしろ)と呼んでいたようだ。
 祭神についてもいろいろな説がある。古くは平将門の霊を祀るとされたり、導きの神としての猿田彦命(サルタヒコ)とされたり、明治に入ってからは高皇産霊命(タカミムスビ)とされた。
 現在、愛知県神社庁の登録としてはサルタヒコ(猿田彦命)に加えて
岐之神(クナト)、八衢彦神(ヤチマタヒコ)、八衢媛神(ヤチマタヒメ)となっている。
 クナトやヤチマタは普通の神社では馴染みのない神だ。簡単にいうと、村を守る塞の神(さえのかみ/さいのかみ)や道祖神といったようなものと考えていい。

 クナト(岐の神)については諸説あってはっきりはしないのだけど、「来な処」つまり「きてはならない所」という意味ではないかという説がある。
『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、追いかけてくるイザナミに向かって逃げるイザナギが、これ以上来るなといって投げつけた杖から化成したのが来名戸祖神(くなとのさえのかみ)といっている。『古事記』では衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)とする。
 ヤチマタヒコ(八衢彦神)、ヤチマタヒメ(八衢媛神)は、イザナギが檍原(あわきがはら)で禊ぎをしたときに生まれた道俣神(ちまたのかみ)のこととする考え方もある。
 天孫降臨するニニギ一行がどちらへ行ったらいいか分からず立ち尽くしていた分かれ道を、天の八衢(やちまた)という。
 道俣神はサルタヒコと同一視されたり、ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメと同神とされたりする。
 村人たちがどの程度日本神話を知っていたかは分からないけど、村の入り口に石や石像などを置いて邪気が入らないようにと願い、それをクナトやヤチマタや道祖神などと呼んでいたのだろう。
 のちにそれらは単なる厄除けを超えて結びの神や五穀豊穣、導きの神など、多様な願掛けの対象となっていく。
 その信仰は仏教や道教などとも結びついているため複雑で、現代人の感覚では本当には理解できないのかもしれない。

『尾張名所図会』に、「三狐神社(さごじのやしろ) 表大瀬古(おもておおせこ)にあり。俗に平親王将門の霊を祭るといへり」とあるように、平将門伝説もある。
 社宮司社が今の場所に移されたのは戦後の昭和27年で、それまでは現在地から130メートルほど南東にあったようだ(地図)。今、景清社があるすぐ近くということになる。
 かつてそのあたりに扇川という小さな川が流れていて、扇橋というのが架かっていたという。
『尾張名所図会』にはこんなことが書かれている。
「扇の橋(おうぎのはし) 同じ所にあり。此所将門の首を埋(うづ)みし跡といひ伝ふ。彼(かの)『米かみよりぞ射られける』といへる故事によれるにや、一名米かみ橋ともよべり」
 これは
藤六左近が詠んだとされるこんな歌から来ている。
「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」
 無敵を誇る平将門にも唯一の弱点があり、それが「こめかみ」だということを知った俵藤太こと藤原秀郷は、そこを狙って矢を射て将門を討ち取ったという伝説がある。
 こめかみに米の字を当てて俵藤太の俵に掛けた洒落でもある。その歌を聞いた将門の首はその洒落を笑ったともいわれる。
 この故事から扇橋は米かみ橋とも呼ばれたという話だ。
 将門の首が飛んできて落ちたという伝承地は各地にあって、一番よく知られているのが東京千代田区の将門の首塚だろう。
 岐阜県大垣にも御首神社(みくびじんじゃ)がある。南宮大社の隼人神が飛んでいく将門の首を射落としてそれを祀ったとしている。
 いつ頃から熱田の大瀬古で将門伝説が語られるようになったのかは分からないのだけど、そういう話が語り継がれてきたということは何かしらの意味があるように思う。
 将門の乱を鎮めるために各地で祈りが行われ、尾張国では熱田社(熱田神宮)が担当し、のちに七所神社(南区笠寺)が創建されていることなども考え合わせると、将門の乱やその存在は、尾張でも他人事ではなかったということだろう。

 大瀬古は熱田神宮の南で、熱田台地の南の突端あたりに位置している。古代は海岸近くだったと考えられる。いつ頃このあたりに集落ができたのかは分からない。熱田社創建の前にしろ後にしろ、目印となるような石なり石仏なりを置くにはふさわしい場所だっただろう。それが集落の守り神としての象徴的な存在になったというのも充分考えられる。
 あるいは、将門伝説の方が先で、あとから民間信仰があわさって導きの神、守り神としての性格を強めていったという可能性もある。
 いずれにしても、サルタヒコもクナトもヤチマタもタカミムスビも全部後付けで、もっと素朴な信仰から生まれた実態のないカミサマを祀っていたのがこの神社じゃないだろうか。
 ただし、そこから歴史を積み重ね、サルタヒコやクナト、ヤチマタを人々が信じていたとしたら、それもまたこの神社の実態には違いない。神社は始まりがすべてではないのだから。
 人々が神社を守り、神社が人々を守ってきた。祭神がどうかなんてことはそれほど重要なことではないのかもしれない。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

民間信仰ごた混ぜの須賀町社宮司社

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