いくつかの民間信仰が重なって絡まった神社で、その実体は分かりづらい。 一般的に社宮司社というとミシャクジ信仰に端を発したものが多い。石神を拝んだり、ヒシャクに願いを書いて奉納したりといったものだ。 しかし、ここはそれだけではなさそうだ。 古くからこの神社を知る地元の人は「おしゃぐりさん」と呼び、江戸時代は三狐神社(さごじのやしろ)などと呼んでいたようだ。 祭神についてもいろいろな説がある。平将門の霊を祀るとされたり、導きの神としての猿田彦命(サルタヒコ)とされたり、明治に入ってからは高皇産霊命(タカミムスビ)とされたりもした。 現在、神社本庁の登録ではサルタヒコ(猿田彦命)に加えて岐之神(クナト)、八衢彦神(ヤチマタヒコ)、八衢媛神(ヤチマタヒメ)となっている。 クナトやヤチマタは普通の神社では馴染みのない神だ。簡単にいうと、村を守る塞の神(さえのかみ/さいのかみ)や道祖神といったようなものだ。
クナト(岐の神)については諸説あってはっきりはしないのだけど、「来な処」つまり「きてはならない所」という意味ではないかという説がある。 『日本書紀』では、黄泉津平坂(よもつひらさか)で、追いかけてくるイザナミに向かって逃げるイザナギが、これ以上来るなといって投げつけた杖から化成したのが来名戸祖神(くなとのさえのかみ)といっている。『古事記』では衝立船戸神(つきたつふなどのかみ)とする。 ヤチマタヒコ(八衢彦神)、ヤチマタヒメ(八衢媛神)は、イザナギが檍原(あわきがはら)で禊ぎをしたときに生まれた道俣神(ちまたのかみ)のこととする考え方もある。 天孫降臨するニニギ一行がどちらへ行ったらいいか分からず立ち尽くしていた分かれ道を、天の八衢という。 道俣神はサルタヒコと同一視されたり、ヤチマタヒコ・ヤチマタヒメと同神とされたりする。 村人たちがどの程度日本神話を知っていたかは分からないけど、村の入り口に石や石像などを置いて邪気が入らないようにと願い、それをクナトやヤチマタや道祖神などと呼んだのが始まりだったかもしれない。 のちにそれらは単なる厄除けを超えて結びの神や五穀豊穣、導きの神など、多様な願掛けの対象となっていったのは自然な流れだ。 その信仰は仏教や道教などとも結びついているため複雑で、現代人の感覚では本当には理解できないのかもしれない。
『尾張名所図会』(1844年)に、「三狐神社(さごじのやしろ) 表大瀬古(おもておおせこ)にあり。俗に平親王将門の霊を祭るといへり」とあるように、江戸時代の庶民感覚では平将門を祀っているという認識が優勢だったようだ。 社宮司社が今の場所に移されたのは戦後の昭和27年で、それまでは現在地から130メートルほど南東にあった(地図)。今、景清社があるすぐ近くということになる。 かつてそのあたりに扇川という小さな川が流れていて、扇橋が架かっていた。 『尾張名所図会』はこう書く。 「扇の橋(おうぎのはし) 同じ所にあり。此所将門の首を埋(うづ)みし跡といひ傳ふ。彼(かの)『将門は米かみよりぞ射られける』といへる故事によれるにや、一名米かみ橋ともよべり」 これは藤六左近が詠んだとされるこんな歌から来ている。 「将門は こめかみよりぞ 斬られける 俵藤太が はかりごとにて」 無敵を誇る平将門にも唯一の弱点があり、それが「こめかみ」だということを知った俵藤太こと藤原秀郷は、そこを狙って矢を射て将門を討ち取ったという伝説がある。 こめかみに米の字を当てて俵藤太の俵に掛けた洒落でもある。その歌を聞いた将門の首はその洒落を笑ったともいわれる。 この故事から扇橋は米かみ橋とも呼ばれたという話だ。 将門の首が飛んできて落ちたという伝承地は各地にあって、一番よく知られているのが東京千代田区の将門の首塚だろう。 岐阜県大垣にも御首神社(みくびじんじゃ/web)がある。南宮大社(web)の隼人神が飛んでいく将門の首を射落としてそれを祀ったとしている。 いつ頃から熱田の大瀬古で将門伝説が語られるようになったのかは分からないのだけど、そういう話が語り継がれてきたということは何かしらの意味があるように思う。 将門の乱を鎮めるために各地で祈りが行われ、尾張国では熱田社(熱田神宮/web)が担当し、のちに七所神社(南区笠寺)が創建されていることなども考え合わせると、将門の乱やその存在は、尾張でも他人事ではなかったということだろう。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。『熱田旧跡記』『熱田阡陌記』『熱田之記』には三狐神祠とあり、『尾張徇行記』には社宮司、猿田彦命を祀るとある。俗に導引の神と称し諸願成就の時は無底の柄杓子をお供えする。明治5年、村社に列格した」 『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。 「社宮祠 字西ノ地ト云所ニ八尺四方ノ小祠アリ、猿田彦命ヲ祀ル、又一説ニ相馬太郎将門ノ首ヲ祀ルトモ申伝ヘリ、町控ナリ」 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、明治30年頃村社に列して、祭神は高皇産霊命とし、こう続ける。 「例祭は舊六月二十日にして、龍宮の畫を施せる提燈の屋形十一基を出す、古来町の支配に属して、熱田神宮の末社にあらず」 祭神については諸説ありながらも熱田社の支配ではなく町の支配だったことからも民間信仰から発した神社ということがいえそうだ。 竜宮の絵というのがどういうものかイメージできないのだけど、それにも何か意味があったはずだ。竜宮の絵を描いた提灯を吊した屋形が十一基も出たということはけっこうな祭礼だったのだろう。
大瀬古は熱田神宮の南で、熱田台地の南の突端あたりに位置している。古代は海岸近くだったと考えられる。 近くで縄文時代早期の新宮坂貝塚や弥生時代の熱田神宮南門前貝塚が見つかっていることからして、熱田台地の突端には早くから人が暮らしていたことが分かっている。 大瀬子の地名由来は定かではないのだけど、狭いところという意味から来ているというのが一般的な解釈だ。熱田台地の突端ということだろう。しかし、ただの瀬子ではなく大瀬子となると少し違うのかもしれない。 神社がある須賀町の須賀もわりと古い地名で、砂地の潟という意味の洲潟が転じたものとされる。ただ、須賀といえばスサノオを連想させる。須賀町は「スガ」と濁らず「スカ」だ。 熱田台地の西縁の北に天王社(那古野神社)、中央に洲嵜神社と、古くからスサノオを祀る神社が配置されていることからして、南端にスサノオを信仰する一族がいたとしても不思議ではない。 今は熱田神宮の摂社となっている南新宮社はスサノオを祭神としているし、失われてしまったと考えられている従一位という高位の素戔鳥名神(『尾張国内神名帳』)は熱田にあったはずだ。 熱田台地にはスサノオの影が見え隠れしている。
いつ誰が何の神を祀るために始めたのかは分からない。素朴な信仰だったのか、祖霊崇拝のようなものだったのか。たとえば海に突き出す岬の突端に石でも置いてそれを集落の守り神としたのが始まりだったかもしれない。 あるいは、将門伝説が先にあって、あとから民間信仰があわさって導きの神、守り神としての性格を強めていったという可能性もある。 サルタヒコもクナトもヤチマタもタカミムスビも全部後付けだとしても、歴史を積み重ねた末に今の社宮司社がある。神社は始まりがすべてではない。 人々が神社を守り、神社が人々を守ってきた。祭神がどうかなんてことはそれほど重要なことではないのかもしれない。
作成日 2017.8.22(最終更新日 2019.9.8)
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