西区円頓寺商店街(FaceBook)の一角にある小さな神社。 円頓寺商店街は名古屋で一番古い商店街といわれる。明治20年代に円頓寺(地図)の門前町として栄え、戦前までは名古屋一の盛り場だった。 名古屋城(web)の南西、堀川を挟んだ対岸に円頓寺商店街はある。 江戸時代中期の享保9年(1724年)の大火で城下が焼けるまで、このあたりには武家屋敷が集まっていた。円頓寺がこの地に移ってきたのは、その後のことだ。 真宗高田派名古屋別院(地図)や慶栄寺(地図)などの門前町として発展していくことになる。 すぐ南にある四間道(しけみち)は火事対策に作られた蔵の町筋で、延焼防止のため道幅を四間に広げ、土蔵を堀川沿いに並べた町並みが今に続いている。 円頓寺界隈には多くの商店が並び、物資や人が集まってきたことから盛り場になっていった。 明治以降、工場が建てられ、市電が通り、名鉄瀬戸線もかつてはここまで線路が延びていた。 そんな賑わいが続いたのも戦前までのことだった。戦後、日本の復興とは反比例するように円頓寺の町は急速に寂れていくことになる。 車社会の発達によって人の流れが変わり、名鉄瀬戸線は手前までとなり、市電も廃止された。 おそらく一番寂れていたのは昭和の終わりくらいだったと思う。近年は四間道が町並み保存地区に指定され、古い商店街の円頓寺も見直されて、少しずつ活気が戻りつつある。建物はいくつか取り壊されたものの、古き良き時代の懐かしい風景を求めて人が訪れる。新しい店も増えてきた。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、名古屋城下の町だったのは那古野あたりまでで、それより西は田んぼと村の集落しかなかったことが分かる。 その後、名古屋駅前の発展とともに名古屋城下も西へと広がっていった。
円頓寺金刀比羅神社はもともとこの場所にあった神社ではない。尾張藩家老の大道寺家の屋敷内にあったものだ。 北条氏の家臣だった大道寺政繁は、秀吉の小田原城攻めによって北条氏が滅亡すると切腹して果てた。 その後、長男の直繁は徳川秀忠に仕え、その子は松平忠輝に仕えるなどしたのち、福井藩士となり幕末まで続いた。 次男の直重は前田利政に仕えたあと、清須の松平忠吉に仕えることになる。忠吉亡き後、尾張徳川初代藩主の義直に2千石という好待遇で招かれ仕官することになった。 その大道寺直重が屋敷を構えたのが名古屋城三の丸の一角で、現在その場所には愛知県図書館がある(地図)。 邸宅内にあった金刀比羅神社を円頓寺の現在地に移したのが1859年(安政6年)という。幕末の動乱期、日本が騒がしくなっているこの時期にどういう理由で移すことになったのかは分からない。 前年の1858年に安政の大獄があり、1860年には桜田門外の変で大老の井伊直弼が暗殺されている。1867年が大政奉還だ。 幕末のこの時期、大道寺家に何があったのだろうか。そもそも、どうして大道寺家は金毘羅神を自宅に祀ろうとしたのかも気になるところではある。 『名古屋市史 社寺編』(大正4年/1915年)は、明治6年に廃祭となり、明治10年に共祭が許され、明治12年再び造営されたと書いている。 幕末から明治にかけてかなりバタバタしたらしいけど、その間の事情は伝わっていない。
戦後しばらくは、金刀比羅神社の境内は現在の3倍ほどあったそうだ。都市計画によって敷地が縮小され、現在はこぢんまりとした神社となっている。 それでも町の人たちに大切にされている神社ということが伝わってくる。ぽつり、ぽつりと訪れる人がいる。 灯籠やら狛犬やらを神社に寄進しまくった伊藤万蔵は、この近くの塩町出身だった。その縁もあって、ここに鳥居を共同で寄進している。 毎年10月10日の大祭には、名駅地区に残る山車が曳き回され、円頓寺商店街を練り歩いた後、金刀比羅神社の前でからくりを奉納する。 幕末から明治維新で世の中が一変し、名古屋一の繁華街となって、戦争を経て、町が急速に寂れていき、時代は昭和から平成へ、静かな復活へと歩む円頓寺のすべてをこの金刀比羅神社は見守ってきた。 町外れではなく、こうした人の暮らしのすぐそばに寄り添うようにある神社もいいものだと思うのだった。
作成日 2017.4.14(最終更新日 2019.9.16)
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