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御嶽神社(高針)

御嶽講についての簡単なまとめと猪高緑地の歴史

高針御嶽神社

読み方 おんたけ-じんじゃ(たかばり)
所在地 名古屋市名東区猪高町大字高針勢子坊 地図
創建年 1949年(昭和24年)
旧社格・等級等 不明
祭神 御嶽大神(おんたけおおかみ)
アクセス 高針台中学校バス停」から徒歩約17分
駐車場 なし
その他  
オススメ度

 猪高緑地の南端近く、親鸞山(しんらんやま)の山頂にある御嶽神社。
 親鸞山は標高111メートルで、東谷山(198メートル)に次いで名古屋市内で二番目に高い山だ。ただし、猪高緑地自体の標高が高いので、東谷山ほど山歩きとはならない。入り口の公園から歩いて5分くらいで行ける。
 もともとは極楽山と呼ばれていた。大正の末頃に浄土真宗の布教をしていた森夢幻がこのあたり一帯の地主だった判治孫三郎から土地の一部を譲り受けて極楽寺を建てた。その後、昭和に入って森夢幻は極楽山の上に巨大な親鸞像を建てることを思いつく。
 計画では台座を入れて全長34メートルだったというから11階建てのマンションに相当する高さだ。それが昭和4年(1929年)のことだった。
 しかし、思うように寄付金が集まらず、実現には至らなかった。
 それでもあきらめなかった森夢幻は、昭和9年(1934年)に日進市に五色園(web)を開園させる。コンクリート仏師の第一人者だった浅野祥雲に依頼して親鸞の教えを伝えるエピソードの場面をコンクリート人形で表現するという斬新なスタイルで、今や五色園は知る人ぞ知る全国区のB級スポットとなっている。
 親鸞像の20分の1スケールのものが五色園に現存している。
 そんなわけで、極楽山はいつしか親鸞山と呼ばれるようになり、地名としては極楽が残った。
 御嶽関係者は高針御嶽山と呼んでいる。

 親鸞山の上に御嶽社を建てたのは、大正10年(1921年)に高針心願講を設立した浅井勝次郎(寛開霊神)だった。昭和24年(1949年)というから戦後間もなくのことだ。
 木造の鳥居と小さな社という簡素なもので、その当時の親鸞山は今ほど木が茂っておらず、山頂から御嶽山がよく見えたという。
 その10年後の昭和34年(1959年)の伊勢湾台風で社殿や参道が大きな被害を受けたため、10年以上かけて再整備したのが大鐘明(明東霊神)だった。

 いい機会なので、木曽御嶽山信仰と御嶽教、御嶽講について簡単にまとめておきたい。
 長野県と岐阜県にまたがる標高3,067メートルの御嶽山(木曽御嶽山)は、古くから神の宿る霊山として信仰の対象になっていた。
 文武天皇時代の702年、信濃国国司だった高根道基が登頂して奥社を建て、國常立命、大己貴命、少彦名命を祀ったとされる。
 その後、修験の道場として発展するも、一般の立ち入りは厳しく制限されていた。特に江戸時代は尾張藩の管轄下に置かれ、100日間(または75日間)の潔斎をした行者しか入れない山だった。
 そんな御嶽山を一般信者に開山したのは江戸時代後期の覚明行者だ。
 尾張(春日井牛山)出身の覚明は各地で修業した後、木曽で布教活動を行い、潔斎を簡略化して一般信者も登れるように代官所などに掛け合うも相手にされず、1785年に許可が下りないまま黒沢口からの登拝を強行するに至った。
 当然、このことは福島代官所の知るところとなり、覚明行者ならびに無断登拝した信者は福島宿に拘束されることになった。
 しかし、翌年も信者をつれて再び登り、登山道の整備などをしているときに病気で亡くなり、そのまま御嶽山に葬られることになった。
 その後も信者達の登拝は続き、ついには代官の山村氏が折れ、条件付きで軽潔斎による一般信者の登拝を許可した。期間は6月14日から18日までで、入山料二百文を払うなど、六ヶ条がその条件だった。覚明の死から5年後の1791年のことだ。信者が訪れるによる村の経済効果も許可が出た一因とされる。
 その翌年の1792年には王滝村で活動していた普寛行者が王滝口の登山道を開いた。それによって関東からの登拝者が増え、御嶽信仰は関東にも広がっていくことになった。何故か関東では火難除けの御利益があるとされた。
 普寛行者が布教のために開発したものに御座(おざ)がある。行者が神懸かりになって神のお告げを信者などに伝えるというもので、東北のイタコのようなものだ。
 行者が神の依り代(中座)となり、別の行者が前座として中座の言うことを聞いて伝える役割をつとめる。
 これが受けたというか流行って信者数は激増し、各地で講社が作られることになった。
 ただし、すべての行者が中座や前座ができるわけではなく、それぞれに厳しい修行を行っても役目を務められるのは一部の人間に限られたようだ。
 こうした一連の流れや活動を放っておけないと感じた幕府による弾圧が行われることになる。
 1821年には普寛行者の最後の弟子の一心行者が捕まり、三宅島遠島を言い渡された当日に自害するといったことも起きている。
 盛心行者は一心行者の汚名を晴らすために尾張藩の力を借りたことで御嶽講社と尾張藩の縁が生まれ、藩主の関係者の女性を御嶽講の人間が治したなどいう話も伝わっている。
 尾張藩の庇護を受けた御嶽講社も、明治の神仏分離令で危機を迎える。その後、紆余曲折があって明治15年に教派神道の御嶽教として再出発することになり、現在に至っている。

 名古屋や近郊では覚明系の講社が主となっているのだけど、有力講社の福寿講、心願講、日出講などは儀覚の宮丸講の流れを汲むもので、儀覚は普寛の孫弟子なので、系統としては普寛系ということになる。普寛の弟子が広山(廣山)で、その直弟子が儀覚だ。
 宮丸講は熱田に拠点を置く名古屋最古の講社で、設立は1811年頃とされている。
 高針の御嶽神社を建てた高針心願講も儀覚とのつながりが深い講社だ。
 心願講を設立したのは古伯(倉知茂兵衛)で、1830年のことだった。
 その後を継いだのが儀覚の弟子の明寛(丹羽宇兵衛)で、古伯の実子である明心(倉知茂兵衛)とともに発展させた。
 当初は長久手の岩作御嶽山(1855年)を拠点とし、後に日進市の岩崎御嶽山(1860年)を拠点にするようになった。どちらも非常に濃い御嶽ワールドが展開されている。
 現在、高針心願講は明東霊神(大鐘明)のご子息(お孫さんになるのか)が継いでいるのではないかと思う(一度ご挨拶したことがあるのだけど、もう継いだのか次に継ぐという話だったか)。
 大鐘というと、戦国時代、柴田勝家に従って武功を挙げた大鐘藤八がいる。柴田勝家は高針村の北の下社城の人なので、大鐘家は藤八の子孫かもしれない。
 高針の蓮教寺(地図)の第5世住職・蓮勝の弟が藤八こと蔵鱗で、もとは僧侶で鐘をあしらった陣羽織を身につけていたことから織田信長に大鐘の姓を賜ったなどという話が伝わっている。
 藤八は晩年に高針村に戻り、蓮教寺に白山権現を勧請したとされる。

 話はガラリと変わって、猪高緑地周辺の歴史について少しだけ。
 名東区には猪高緑地の他に、牧野が池緑地、明徳池という3つの緑地がある。これらはわざわざ緑地化したわけではなく、もともと名東区はああいう緑地帯だったのだ。緑地帯を切り開いて宅地化したということで、逆ではない。ほぼ全域が起伏に富んだ森林地帯だったといっていい。今でも緑地の中にはイタチやタヌキや野ウサギなどが生息しているという。
 猪高緑地の一帯からは縄文時代の石器や土器などが見つかっていることから、早くからこのあたりに人が住んでいたと考えられている。水をどうしていたのかが気になるところで、近くには川らしい川はないから湧き水が湧くところがあったのだろうか。
 猪高緑地すぐ東は長久手市の丁子田(ちょうしだ)、市が洞で、ここから飛鳥時代の土器が発見された。
「瓫五十戸」(ほとぎのさと)と刻銘された須恵器の破片で、同じものが飛鳥(奈良県明日香村)の石神遺跡から出ている。
 石神遺跡は、斉明天皇や天武天皇時代の迎賓館の跡と考えられており、瓫五十戸の刻銘がある須恵器は猪高緑地周辺と尾張元興寺跡、飛鳥の石神遺跡以外では見つかっていないことから、天皇が賓客をもてなすための須恵器をわざわざここで焼いて運んだということのようだ。何か特別な焼き物で、ここでしか焼けないものだったということだろうか。
 名古屋東部の千種区東山から名東区一帯にかけては古墳時代から鎌倉時代まで日本を代表する焼き物の産地だった。後に生産地は瀬戸や猿投の方に移っていったのだけど、それらを総称して猿投窯(さなげよう)と呼んでいる。
 瓫五十戸については平安時代にはすでになくなっていたというから、それまでにはここを引き払って他に移っていたのだろう。
 土器の生産に必要なのは、良質の土と燃料になる木と焼き窯を作るための斜面だ。千種区、名東区の一帯はその条件に合っていたということになる。他に移っていったのは、土を掘り尽くしてしまったか、木材が不足するようになったかだろう。
 飛鳥時代ということを考えると、焼き物を作っていたのは百済あたりから来た渡来系の工人集団だったかもしれない。
 水をどうしていたのかはここでも気になるところだ。水がなければ焼き物のときに困るし、何より生活できない。どこから得ていたのだろう。
 江戸時代は水不足を補うためにたくさんの溜め池を作って、それでも足りずによくモメ事を起こしていたという。
 そこで立ち上がったのが勝野太郎左衛門長政で、長政による牧野が池によってこの地区の農業がずいぶん発展した。

 話がとりとめなくなったけど、最後に地名についてもう少しだけ。
 猪高町は猪高村から来ていて、猪高村は明治39年(1906年)に猪子石村と高辻村が合併して成立した。
 高針(たかばり)は、高い土地を開墾(はり)したということで高治と呼び、高針に転じたとする。平らなところを開墾したのが平針(ひらばり)だ。
 別の説として、高尾張の人がここにやってきて高尾張と呼び習わしていたのが、後に尾を抜いて高張とし、高針となったともいう。
 勢子坊(せこぼう)の由来は江戸時代に起源がある。勢子は狩猟の際に獲物を追い込む役のことで、末森山と植田山が尾張徳川家の抱え山で、御狩場として巻狩(まきがり)がときどき行われ、そのたびに高針村の住人が勢子をつとめたことから地名になったとされる。

 以上、御嶽講社と猪高緑地の歴史について簡単にまとめてみた。

 

作成日 2018.9.16(最終更新日 2019.2.1)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

名古屋で二番目に高い親鸞山にある高針御嶽神社

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