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星宮社

君はこの神社が奏でるハーモニーを聴くか?

星宮社鳥居と拝殿

読み方 ほしみや-しゃ
所在地 名古屋市南区本星崎町字宮西616 地図
創建年 伝・637年(飛鳥時代中期)
旧社格・等級等 村社・十一等級
祭神 天之香々背男命(あめのかがせおのみこと)
國常立命(くにのとこたちのみこと)
アクセス 名鉄名古屋本線「本星﨑駅」から徒歩約7分
JR東海道本線「笠寺駅」から徒歩約28分
駐車場 なし
その他 例祭(本地まつり) 10月第1土・日
オススメ度 ***

 なんだここは。
 それが最初の感想だった。
 神社全体がざわめいている。いや、奏でているというべきだ。静かで力強いメロディーが境内に鳴り響いている。ソロではなくトリオかカルテットのような重奏だ。それが見事な調和をみせている。
 これはすごいところだなと、しみじみ感じ入ってしまった。他の神社ではこの感覚は味わったことがない。

 ここはかつて海に向かって突き出した岬の突端だった。境内に灯された常夜灯の明かりが灯台のようだったという。
 式内社で熱田神宮(web)摂社となっている上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)と下知我麻神社(しもちかまじんじゃ)の元宮があった場所というのが私のこの神社に対する認識だった。
 しかし、話はそう単純ではない。熱田社と絡んだことで余計に事態が複雑なことになってしまった。絡んだ糸は簡単には解きほぐせそうにない。
 謎解きは半ばあきらめた。あきらめたまま、複雑さをそのまま受け入れたい気持ちになっている。あの見事なハーモニーを聴かされてしまったら、謎解きなどという無粋なことはせずに、そのまま身を委ねるしかないではないかという気分だ。
 とはいえ、自分自身の頭の中を整理するためにも、分かっていることを書き出す試みだけはしておきたい。

 舒明天皇(じょめいてんのう)時代の637年に創建されたという話がまずある。
 ただし、場所はここではなく、北200メートルほどの笠寺小学校のグラウンド(地図)あたりだったとされる。中世に現在地に移されたという。
『愛知縣神社名鑑』は「社伝に舒明天皇の九丁酉年(637年)神託により此の千竈の里に社殿を造して初めて星神を祀る」と書いているのだけど、これをそのまま信じていいかどうか。
 舒明天皇時代(629-641年)に星﨑に隕石が降ってきたという言い伝えがあり、それが星宮社創建につながったという説もある。
 一方で、この神社は知我麻神社の元宮だという話もある。どちらが本当でどちらが本当ではないのか。もしくは、どちらが先でどちらが後なのか。
『愛知縣神社名鑑』は続けてこう書く。
「承平年中(831-837)平将門の返逆(ママ)を鎮めんと勅により熱田の七種の神を迎えて将門降伏の祈願を行う。天慶三年(940)調伏する此の社を星の宮社と称す」
 将門の反乱を鎮めるために朱雀天皇は日本各地の寺社に祈祷を行うように命じたという話は笠寺七所神社のところで書いた。
 尾張では熱田社がそれを買って出たのか命じられたかで、鳥居山(今の丹八山/地図)に熱田の七神(熱田大宮、八剣宮、日割宮、高倉宮、大福田宮、氷上宮、源田夫宮)を神輿で運んで祈祷を行ったと伝わっている。反乱が鎮まった翌年の941年に鳥居山に熱田七神を祀ったのが七所神社創建のいきさつとして語られる。
『愛知縣神社名鑑』がいうには、637年に神託によって星﨑に星神を祀る社を建て、835年に平将門の乱を鎮める祈祷を行って鎮圧後に星の宮社と称するようになった、という。
 これはちょっとどうなんだろう。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の本地村の項を見るとこうなっている。
「氏神壱ヶ所内ニ 星宮 天王 山神弐社 当村祢宜 助大夫持分 社内弐反七畝拾弐歩 前々除」
『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。
「星大明神社 星﨑庄本地村にあり。天津甕星神(あまつみかぼしのかみ)を祭れり。或は香香背男神といへるも同神なるべし。承平年中平将門誅戮御祈の為に、熱田の神輿(じんよ)を此地に振出し奉りしに、忽(たちま)ち七里光をたれ、池中に輝きしかば、其池を七面池と號し、御手洗池とせしよしいひ傳へたり」
『尾張志』(1844年)の該当部分はこうだ。
「本地村にあり天津甕星神を祭るよし府志に見ゆ社説に舒明天皇九年七星天降けるに神託ありて往古千竈の郷なる此處に初めて社を建て斎奉れりといへりこはあやしげに聞ゆる説なれとも此舒明天皇の九年にかけていへるは傳混(ツタヘマカヘ)たるならむとおもはよろつに交へ用ひらるる御代となるてより以来は北辰の祭なといふ事もやや古くよりいできて妙見なといふ神号さへものに見ゆる様になれるは舒明天皇の大御代頃にこそあらざらめやや古き年頃より祭初たる星ノ社なるべし又此星ノ社あるによりておこれる星﨑の地名ならむには星﨑とよめる歌の堀河天皇初度の百首に見えたるにても其時代は大概おしはからるる也」
「上知我麻神社 星ノ宮の同地星のやしろの北の方にあり乎止與ノ命を祭る」
「下知我麻神社 同所にあり伊奈突智ノ老翁眞敷刀咩ノ命を祭るよし社説にいへり扨この上知我麻下知我麻といふ二社は星の宮より以前にここに鎮座したまへり地主神にして伊奈突智ノ老翁は此處にてはしめて鹽竈を作り海潮を焼て潮つくる事を教へたる人を稱たる神名なりといへり(中略)上下知我麻の二社の号は延喜神名式に載て今は熱田なる源太夫ノ神紀大夫ノ神といふ社なるよしに熱田社の鎮座本紀に見えたるによりて然(サ)おもへるを今よく考ふれは此社そ舊地の本所なるへし」

 江戸時代は星宮や星大明神と呼んで、天津甕星神、もしくは香香背男神を祀るという認識だったことが分かる。平将門の乱を鎮めるために熱田の七神をこの地で祀ったという言い伝えも共通認識だったようだ。
『尾張志』は舒明天皇時代ということに疑いを抱きつつもこの時代には星神信仰も現れてきていて、平安時代後期の『堀河院百首』に星﨑の地名が出てくるから、星宮はそれ以前の古い時代にあったのだろうとする。
 ちなみにその歌というのは、藤原仲実詠「星崎や熱田の潟のいさり火のほのもしりぬや思ふ心を」というものだ。
 やはり問題は上知我麻神社・下知我麻神社との関係だ。
 平安時代の百科事典『和名類聚抄』(931-938年)の中で尾張の地名として千竈(ちかま)が出てくる。千の竈、つまりは塩作りのためにたくさんの窯が並ぶ風景が地名の由来とされている。
 上知我麻神社・下知我麻神社のうち、下知我麻神社で伊奈突智老翁という神を祀っていたという。名前からして塩土老爺との関連が思い浮かぶ。『尾張志』もどうして塩土老爺ではなく伊奈突智老翁だったのかと疑問を呈しているけど、実際に伊奈突智老翁として祀られることになる人物が千竈にいたということかもしれない。
 星宮のところにあったのは上知我麻神社で、もっと北に下知我麻神社があったという話もあるのだけど、そのあたりもはっきりしない。
 忘れてはいけないのが、『延喜式』神名帳(927年)に上知我麻神社と下知我麻神社が載っていることだ。星宮社は載っていない。
 掲載順にどれだけの意味があったのかは分からないのだけど、並びとしては日置神社、上知我麻神社、下知我麻神社、熱田神社の順になっている。熱田の摂社とされる日割御子神社、孫若御子神社、高座結御子神社、八劔神社、火上姉子神社、青衾神社は最後の方にまとめて載せられている。つまり、平安時代中期の時点で上知我麻神社と下知我麻神社は官社であり、熱田社の摂社ではなかったということだ。
 上知我麻神社と下知我麻神社は鎌倉時代に熱田に移されて、江戸時代は源太夫社と紀太夫社と呼ばれ、それぞれ熱田社外の市場町と旗屋町に独立してあった。源太夫社ではオトヨを祀り、紀太夫社の祭神はオトヨの妻のマシキトベとされた。
 上知我麻神社が熱田神宮境内に移されたのは、戦後の昭和24年のことだ。
 下知我麻神社は『尾張名所図会』に「鎮皇門の北の築地(ついぢ)の外にあり」とあるから、現在地とさほど違わない場所に移されていたようだ。
 鎮皇門は西門に当たり、1600年に加藤清正が造営したもので、戦前までは国宝だった。第二次大戦の空襲で焼けてしまって今はない。

 津田正生は『尾張国地名考』の中で、『和名抄』や『延喜式』の頃の千竈は御器所から笠寺あたりまでのことで、本来の千竈郷は星﨑あたりのことではないと書いている。
 中世になると御器所の塩釜が廃れて、新井村、南野村あたりで塩作りをするようになり、星﨑を千竈郷のことだと思うようになったのだといっている。
 それが本当だとすれば、『延喜式』神名帳にある上知我麻神社と下知我麻神社は星﨑よりももっと北にあったということになる。
 となるといろいろ考え直さなくてはならないのだけど、ここではいったん保留とする。

 ひとつ気になるのは、星宮が最初に祀られたのは現在地のやや北だったという話だ。
 中世に星﨑城を築くときに星宮を現在地に移したというのだけど、これもどうも定かではない。
 星﨑城は山田重忠が築いたという説がある。しかし、私はこの説は信じていない。
 山田重忠は今の北区山田あたりを拠点にしていた武士で、尾張氏の末裔であり、鎌倉時代は幕府の御家人だった。
 重忠が星﨑城を築いたのは1177-1181年頃というのだけど、1221年の承久の乱で命を落としたときは56歳だったというのを信じるなら1181でもまだ16歳でしかない。父も兄も存命中に元服するかしないかの少年がゆかりがあるとは思えない星﨑に城を建てるとは考えにくい。
 星崎城主の山口氏が山田重忠の子孫ということで重忠が築城したといった話になってしまったのではないかと思う。
 そもそも星﨑城築城に伴う星宮移築については個人的に疑わしく思っている。あるとすれば、星﨑城を建てた場所にあった社を星宮に移したといったことだろうか。
 気になるといえば、鎌倉時代の御家人で千竈郷を本拠とした千竈氏の存在だ。
 常陸国、駿河国、薩摩国にも所領があったようなのだけど、尾張の千竈氏は上下知我麻神社や星宮と関わったのかどうか。もともと尾張国が本拠だったとすれば、尾張氏とも何らかの関係があったと考えられる。

 できる限り調べたり考えたりしたけど、結局はよく分からない。
 星神と知我麻神社と熱田神が渾然一体となった神社といったらいいだろうか。それが不協和音とならずに心地よいハーモニーを奏でているように感じられるのは何故なのか。まつろわぬ神と呼ばれたアメノカガセオはこの地に安住を見いだせただろうか。
 祭神の中に國常立命(クニノトコタチ)が入っているのも引っかかるといえば引っかかる。いつどこで入ったのか。
 謎は謎として残った。それでもかまわないと、この神社に関しては思う。歴史を飲み込んだまま語らず、星宮は楽しげに歌っているように私には感じられたので、それで充分と思えた。
 祝福、そんな言葉が思い浮かんだ。そんな神社はめったにない。

 

作成日 2017.4.24(最終更新日 2019.8.9)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

南区の星宮社は私にとって特別な神社のひとつとなった
星宮社の本地祭りを見にいく
星宮社本地祭りの風景<1>
星宮社本地祭りの風景<2>
星宮社本地祭りの風景<3>
星宮社本地祭りの風景<4>

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