成海神社の例祭のときに前を通りかかってたまたま見つけたところで、居合わせた氏子さんに話をうかがったところ、以前は普通の社に祀っていたものを、城之下公会堂を建て替えたときに今のスタイルにしたとのことだ。 城之下町内会ブログ(web)というのがあったのでさかのぼって読んでみたところ、事情が少し分かった。 2013年4月の記事に、公会堂兼山車蔵を建設中の様子が紹介されていて、その中で秋葉社と津島社を納めるための棚を特注で作っているとある。お社は近くのホームセンターで購入したようだ。 工事は予定通り進んで、2013年9月に完成したことが分かる。 5年経っているにしては公会堂も社も新しい状態を保っている。 以前はどんな状況だったのかを写真でもいいから知れるといいのだけど。 ブログを読んでいくと、2018年の5月に表札の修復作業を行ったようだ。秋葉社と津島社もこのとき修復されている。 毎年5月には津島市の津島神社(web)に出向いて御神札を受けていることと、12月には静岡県袋井市の秋葉山可睡齋(web)に行って御札を受けた様子も紹介している。 それぞれの祭礼も行い、日頃からきちんとお世話をしていることが伝わって好感を抱く。 こういった情報発信はけっこう大事だと思うので、今後増えていくことを期待したい。
町名の城(しろ)は鳴海城から来ていて、公会堂のすぐ西の小高いところにかつて鳴海城(根古屋城とも)があった。そこは鳴海城が建つ前は成海神社があった場所で、今は天神社(あまつかみしゃ)が鎮座している。 地区としては城之下町(きのもとちょう)といっているようで、これも文字通り鳴海城の下にある町ということから来ている。 鳴海城は江戸時代以前に廃城になっているので、地名としてはそれ以前からのものということだろう。西隣にある作町(さくまち)は、桶狭間の戦い(1670年)の後に鳴海城主をつとめた佐久間信盛・信栄父子から来ているとされる。
城之下町は山車を所有していて、成海神社の例祭のときに曳き出される。 江戸時代中期の1717年に知多の半田あたりから購入したものと伝わっている。製造されたのはそれより以前ということになるだろう。 山車の形態は知多型もしくは知立型といわれるもので、幕には鳳凰と麒麟、獅子三匹が金糸で刺繍されている。からくり人形はベロ出し(ベロベロ)の采振り人形と唐子となっている。 成海神社の例祭では城之下の他に、花井、北浦、丹下からそれぞれの山車が出て町内を練り歩き、成海神社に集結する。
公民館があるのは鳴海宿から少し外れた丘陵地帯の縁(へり)で、秋葉社と津島社はそれぞれ別の場所にあったのかもしれない。鳴海宿の中かもしれないし、道沿いかもしれない。 おそらく両社ともに江戸時代に入ってから祀られたものではないかと思う。津島社は当時は牛頭天王を祀る天王社だっただろう。疫病除けといえば天王とだいたい決まっていた。津島市の津島神社(web)も江戸時代までは津島牛頭天王社(津島天王社)と称していた。 社は以前より小さくなってしまったとしても、町内の人たちによって大事に守られているので、今後も安泰だろう。
作成日 2018.11.8(最終更新日 2019.4.8)
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