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八幡社(大幸)


いわれが分からない大幸と八幡



大幸八幡社

読み方はちまん-しゃ(だいこう)
所在地名古屋市東区大幸4丁目17 地図
創建年1752年?(江戸時代中期)
社格等村社・八等級
祭神誉田別命(ほんだわけのみこと)
アクセス名鉄瀬戸線「矢田駅」から徒歩約10分
駐車場 なし
その他例祭 10月15日
オススメ度

 かつての大幸村(だいこうむら)で大幸という町名が今も残っている。
 大幸の地名の由来については諸説あってはっきりしない。
 津田正生は『尾張國地名考』の中でこう書いている。
「地名詳ならず此村矢田川の端に近しされば正字大河か又醍醐森といふも程近きにありといへば醍醐の転声か また一考あり 隣村上野の旧名を狩津と呼しに対て山の幸多也という意をもて従来大幸(おおさち)といひしを後世戦国このかた字音に呼たるもしるべからず猶訂すべし」
 矢田川が大河と呼べるほどの川だったとも思えないし、醍醐の森から来ているというのもちょっとピンと来ない。大いなる山の幸というのもどうだろう。もともと「おおさち」といっていたというなら、大きな砂地とかの方が由来としてはそれっぽい。
 ここは矢田川の左岸(南)で、矢田川が流れる先の西の大曽根(おおぞね)は、川の決壊でできた土地や自然堤防を意味する曽根から来ているだろうから、ここは大きな砂地だったのではないか。



『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書く。
「社伝に宝暦二壬申年(1752)10月10日、創建という。大幸町の産土神として崇敬あつく、明治18年、村社に列格した。昭和55年、社殿を造営し、八等級に昇級した」
 創建年を社伝は1752年としているという。
 しかし、1655-1658年頃の調査をもとに1670年頃まとめられた『寛文村々覚書』には「八幡壱社 小幡村文殊院袈裟下 当村山伏 大宝院持分 此社内 年貢地」とある。
 江戸時代を通じて大幸村の神社は八幡社のみだったようなので、ここにある八幡社は今の大幸八幡社のことではないのか。だとすれば、少なくとも1670年にはすでに神社はあったことになり、1752年創建というのは正しくないことになる。
『尾張徇行記』(1822年)では、「八幡社界内年貢地 村人書出ニハ界内三畝二歩前々除、外ニ宮村田畠三畝十歩村除、松林二ヶ処一畝十歩前々除 摂社天王山ノ神外ニ界内稲荷社アリ」と書いている。
『尾張志』(1844年)は、「八幡社 大幸村にあり 末社に白山社山神社あり」とする。
『寛文村々覚書』が書いている「小幡村文殊院袈裟下 当村山伏 大宝院持分」というのはどういうことなのだろう。
 現在の守山区小幡に文殊院はなく、袈裟下というのがどういう意味なのか分からない。大宝院の山伏がこの八幡社の管理をしていたということなのか。大宝院というのも今の名古屋には見つけられない。
 創建のいきさつは結局のところ不明としか言えない。
『なごやの町名』では、前九年の役(1051-1062年)の際、陸奥守に任ぜられた源頼家とその子義家がこのあたりを通ったとき、飲み水を探すも見つからず、義家が矢を田に突き刺すときれいな水が湧き出て、八幡様のおかげ大幸、大幸と喜んだという話が「大幸町八幡社のいわれ」として伝わっていると書いている。
 社内は年貢地となっていることから、鎌倉時代に創建されたような古い神社ではないだろう。江戸時代前期あたりの創建ではないかと思うけどはっきりしたことは言えない。
 江戸時代は近くの矢田川の土手に鉄砲の稽古場と鉄砲道具を収める蔵があったというから、そのことと八幡社が関係しているかもしれない。
 今も行われているかどうか分からないのだけど、昭和までは特殊神事として茅輪くぐりと赤丸神事を行っていたようだ。この神事が伝わっているのは古い神社に多いことからすると、八幡以前に古い神社として祀られていた可能性も考えられる。
 大幸村の産土神だから、大幸村が成立した時期がこの神社の創建ということになるのではないか。
「古義ニ、慶長十三申年尾張国備前検地ハ、矢田大幸村ヨリ検地ヲ始ト云伝ヘリ」と『尾張徇行記』は書いている。1608年に行われた備前検地は、矢田村と大幸村から始められたとのことだ。たまたまだったのか、何か理由があったのか、そのあたりまでは書かれていない。



 名古屋初の昭和19年の空襲でこの地が目標にされたのは、昭和10年に三菱重工の工場がここに進出してきたからだった。それまで農村地帯だった大幸は工業地帯となり、それにつれて住宅も増えていった。そこに空襲を受け焼け野原となって戦後やり直しとなった。
 現在の大幸は、北エリアは住宅地で、南エリアは学校が集まる地区になっている。ナゴヤドームも大幸の南エリアにある。
 八幡社の現在の社殿は昭和53年(1978年)に再建されたコンクリート造のものだ(『愛知縣神社名鑑』は昭和55年としている)。
 八等級まで昇級しているということは氏子さんが多いのか、お金持ちの神社なのか。
 境内の囲われ感が弱くてあまりにも開放的なので、もう少し囲ってほしい。公園の中に社殿があるような感じで落ち着かない。
 せめて第二鳥居から先の拝殿、本殿エリアだけでも瑞垣で囲うか、境内周辺に木を植えるとかするといいんじゃないと思うけどどうだろう。




作成日 2018.2.2(最終更新日 2019.2.21)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

たまたま見つけた大幸八幡社に参拝していく

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