川島神社

ふたりの女神を祀ったのは誰か

川嶋神社鳥居と拝殿

読み方 かわしま-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区川村町281 地図
創建年 伝807年(平安時代初期)
旧社格等 式内社・村社・八等級
祭神

伊耶那美(いざなみのみこと)
大苫辺命(おおとまべのみこと)

 アクセス

・ゆとりーとライン「川宮」から徒歩約8分。
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度 **

『延喜式神名帳』(927年)に「山田郡川嶋神社」と載る式内社。
『尾張国内神名帳』(平安末)に「従三位川島天神」とあるのが、守山区川村町の川島神社とされる。
 しかし、この川島神社、いくつか問題というか疑問点があって、そう簡単に神名帳にある川島神社と決めつけていいのかどうか。
 まず、創建年とされる平安時代初めの807年と由緒が合わない。
 創建したのは尾張連の祖とされる沖津世襲(おきつよそ)という。オキツソヨは、第5代孝昭天皇に仕えたとされる人物だ。孝昭天皇は欠史八代(けっしはちだい)の天皇で実在を疑われている。
 ただ、オキツソヨは尾張連の祖とされるから、時代的にはヤマト王権時代、区分でいうと200年代から600年代頃の古墳時代に相当する。平安時代では全然年代が合わない。
 ついでに書くと、オキツソヨの妹に世襲足媛(よそたらしひめ)がいて、孝昭天皇の皇后となり、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)を産む。天足彦国押人命は和邇氏(わにし)の祖となり、日本足彦国押人命は第6代孝安天皇となる。
 疑問の第一は、誰がいつ創建したのか分からないという点だ。

 祭神は、イザナミとオオトマベで、どちらも女神だ。
 イザナミはお馴染みだけど、オオトマベは馴染みがない。
 天地開びゃくのときに登場する神世七代(かみのよななよ)の第5代の神で、大斗乃弁神(おおとのべのかみ)ともいい、男神の大戸之道尊(オオトノジ)と一対の神とされる。
 イザナミとオオトマベのどちらを先に祀ったのか、同時に祀ったのかは分からないのだけど、いずれにしても男女神のうちの女神だけを祀っているところに何らかの意図を感じる。
 問題は、このふたりの女神と尾張氏がどう関わってくるかということだ。
 オオトマベというのがどういう性質を持った神と認識されていたのかは分からない。一対で家を守る神という説もあるようだけど、定かではない。
 非常にマイナーな神であることは間違いないようで、式内社の中で主祭神としてオオトマベを祀っているのは、徳島県徳島市の宅宮神社(えのみやじんじゃ)と、ここ川嶋神社しかないようだ。
 宮城県宮城郡利府町赤沼にある染殿神社(そめどのじんじゃ)でも祀っているようだけど、関係があるのかないのかは不明。
 疑問の第二は、何故、オオトマベだったのかという点だ。

 川島神社はもともと、現在地よりも東1キロほど、余慶山と呼ばれる丘陵地の麓、庄内川から分かれる白沢川近くにあったと言い伝えられている。現在、城土公園があるあたりか、もう少し北、もしくは南かもしれない。
 そこから現在地より1キロほど西(元宮)に一度遷座し、再び遷座して今の場所に移ってきたという。ここは長明旧寺の跡地だったらしい。
 疑問点の第三は、何故そんなにあちこち移る必要があったのかということと、このあたりを山田郡としていいかどうかという点だ。
 中世以降、山田郡は廃止され、春日井郡と愛知郡に分割編入されるのだけど、そのときは春日井郡に入っている。山田郡と春部郡の境界さえはっきり分かれば式内社の特定がずいぶん楽になるのだけど、今更決定的な史料が見つかるとも思えない。
 個人的には庄内川から南は山田郡でいいんじゃないかと思うけど、川嶋神社があったあたりを春部郡と考え、川嶋神社は山田郡川嶋神社ではないのではないかと言う人もいる。

 ひとつ気になる説を読んだ。
『郷土誌かすがい 第52号』の「伝承による尾張古代考2」の中で井口泰子氏は、「川島神社の祭神もヲトヨノミコトである」と書いている。
 そこまであっさり言い切れる情報源はどこにあるのだろう。他で川嶋神社の祭神をオトヨ(乎止与命)としているのを読んだことがない。
 オトヨは尾張氏の祖神・アメノホアカリ(天火明命)の子孫で、初代尾張国造(おわりのくにのみやつこ)とされる人物だ。ヤマトタケルの妻で草薙剣を祀る熱田神宮を創建したミヤズヒメの父であり、タケイナダネ(内々神社)、オツナネ(針綱神社)、オハリハリナネ(針名神社)と続いていく。
 オトヨは熱田神宮の境内摂社・上知我麻神社で祀られている。下知我麻神社では妃の真敷刀俾命(ましきとべのみこと)が祀られ、どちらも式内社だ。かつては南区の星宮社に祀られていたという。
 もし、本当に川島神社の祭神がオトヨだとすれば、川島神社に対する認識を大きく変える必要があるけど、個人的にはそれはちょっとどうかと思う。確かに、志段味古墳群や尾張氏の拠点だったとされる東谷山(尾張戸神社)もあるし、創建したのは尾張連の誰かだったのだろうけど、そもそもの祭神がオトヨだとしたら、オオトマベの名前など出てこなかったのではないかと思う。

 江戸時代から明治初めまでは、熊野神社や熊野大権現、熊野十二所権現などと呼ばれていたという。
 これはイザナミから来ているものだろう。神仏習合の時代、イザナミと熊野信仰が結びついていた。
 明治5年(1872年)に村社に列する。
 明治15年(1882年)、熊野神社から川嶋神社に改称。

 いつも疑問に思うことは、時代によって、どのレベルの人まで『古事記』(712年)や『日本書紀』(720年)を読むことができて、どのレベル以上の人が神社を創建できたのだろう、ということだ。
 現代人の感覚からすると700年代は相当昔に思えるけど、日本に国家の原型ができるのが200年代、300年代なので、『古事記』、『日本書紀』以前に少なくとも数百年の歴史があるということになる。
 この話を書き始めると長くなるのでここではやめておくけど、神社創建に関わった人たちの目線に立って考えないと、その神社の本当の姿は見えてこないように思う。
 川島神社がどういう神社なのか、はっきりしたことは言えない。ただ、ふたりの女神、二人の妻を祀る神社というのが個人的な考えとして残った。ミヤズヒメも一緒に祀ってあげたいなとちょっと思った。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

川嶋神社に初参拝

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