川島神社

女神を祀ったのは誰か

川嶋神社鳥居と拝殿

読み方 かわしま-じんじゃ
所在地 名古屋市守山区川村町281 地図
創建年 807年(平安時代初期)
旧社格・等級等 指定村社・八等級・式内社
祭神 伊耶那美命(いざなみのみこと)
大苫辺命(おおとまべのみこと)
誉田別天皇(ほむたわけのすめらみこと)
須佐之男命(すさのおのみこと)
日本健命(やまとたけるのみこと)
大山津見命(おおやまつみのみこと)
アクセス ゆとりーとライン「川宮」から徒歩約8分
駐車場 なし
その他 例祭 10月15日
オススメ度

『延喜式』神名帳(927年)の山田郡川嶋神社、『尾張國内神名帳』(平安末)の従三位川島天神とされる神社。
 しかし、今の川島神社を神名帳にある川島神社としていいかどうか、少し検討する必要がありそうだ。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。
「神社の明細帳に『この社は日本彦国押入天皇(平城天皇)二年(大同二年807)尾張国の連沖津が創建したと伝える。延喜式内尾張の国山田郡従三位川島天神と言うのは此の神社である』と天野信景の『本国神名帳』にも川島神社は春日井郡川村氏神熊野宮である。小田切春江の『尾張名所図会』も川島の神社と記るす。明治5年5月、村社に列し、明治15年5月4日、今のように社号を改めた。明治40年10月26日、供進指定社となり、明治44年4月17日字柳原の八幡社と字山際の八剣社又鴻巣の山神社を合祀した。昭和44年5月3日、社殿及び社務所を造営する。同年9月18日、八等級社に昇級した。棟札は江戸初期から現在まで二十余社蔵する」

 まず、尾張国の連沖津が807年に創建したというのが分からない。
 沖津が沖津世襲(おきつよそ)のことを指しているとすれば年代がまたく合わない。沖津世襲は第5代孝昭天皇に仕えた人物で、尾張氏の祖とされる。ただ、孝昭天皇は欠史八代(けっしはちだい)と呼ばれるうちの五代で実在性を疑われている。
 孝昭天皇にしろ沖津世襲にしろ、平安時代前期の人ということはあり得ない。可能性としては、沖津世襲と沖津は別人で、平安時代に尾張氏に沖津という人物がいて、川島神社を創建したということだ。ただし、尾張氏系図に沖津は見当たらない。
 ついでに書くと、沖津世襲の妹に世襲足媛(よそたらしひめ)がいて、孝昭天皇の皇后となって、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と日本足彦国押人命(やまとたらしひこくにおしひとのみこと)を産み、天足彦国押人命は和邇氏(わにし)の祖となり、日本足彦国押人命は第6代孝安天皇になったとされている。

 祭神についていうと、主祭神は伊耶那美(イザナミ)と大苫辺命(オオトマベ)で、どちらも女神だ。イザナミはお馴染みだけど、オオトマベは馴染みがない。
 天地開びゃくのときに登場する神世七代(かみのよななよ)の第5代の神で、大斗乃弁神(おおとのべのかみ)ともいい、男神の大戸之道尊(オオトノジ)と一対の神とされる。
 イザナミを祀る熊野社とされたのは後の時代のことで、本来の祭神はオオトマベと考えていいだろうか。だとすると、オオトマベと尾張氏がどう関わってくるかということが問題となる。
 古い時代においてオオトマベというのがどういう性質を持った神と認識されていたのかは分からない。一対で家を守る神という説もあるようだけど、定かではない。
 非常にマイナーな神であることは間違いないようで、式内社の中で主祭神としてオオトマベを祀っているのは、徳島県徳島市の宅宮神社(えのみやじんじゃ)と、ここ川島神社くらいしかないようだ。
 宮城県宮城郡利府町赤沼にある染殿神社(そめどのじんじゃ / web)でも祀っているようだけど、関係があるのかないのかは不明。

『寛文村々覚書』(1670年頃)の川村の項はこうなっている。
「社三ヶ所 内 熊野権現 八劔 山神 社内壱反壱畝拾六歩 前々除」
『愛知縣神社名鑑』にもあるように、江戸時代、この神社は熊野権現と呼ばれていたことが分かる。イザナミを祀るとしているのもそこから来ている。
 八劔と山神は明治末に川島神社に合祀された。

『尾張志』(1844年)は、「延喜式神名式に山田郡川島神社本國帳に従三位川島ノ天神と見えたり 参考本國帳に本國帳集説に川村の熊野ノ社をそれなりといへり是もちかきあたりに直會といふ地なとありて舊社と見ゆれはさもあらんか猶考へて定むへし」と書く。
 川村の熊野権現が式内の川島神社だという説があるというだけではっきりそうだとはいっていない。

『尾張徇行記』(1822年)は川村の熊野権現が式内の川島神社だという説を紹介して、こんなふうに書いている。
「川島神社ノ事ヲ村人ニ問フニ、是井ノ神也ト云、古ヘ川村ノ民東山ノ麓ニアリテ、其比ハ右社同所ニアル由、今白沢川新堀割ノ落口右ノ方松林アリ、社ノ跡地ト云、其後今ノ村落ヨリ二町ハカリ西ニ元宮ト云所ヘ一旦移シ祀リ、復後今ノ処ニ易地アル由、此地ハ昔年長明寺トイヘル大伽藍廃寺ノ跡ナリ、サレハ叢林ノ南ニ大門ナト云字ノコレリ、近此他邦好事ノ人ココニ訪ヒ来、川島神社ノ事ヲ委ク尋ユキタル事アル由、サレハ他邦ヘモ伝聞シタル神社ナルヘシ」
 川村はかつて今(江戸時代)よりも東1キロほどの余慶山と呼ばれる丘陵地の麓、庄内川から分かれる白沢川近くにあった。現在、城土公園(地図)があるあたりか、もう少し北、もしくは南かもしれない。川島神社もその村内にあったということだ。
 その後、川村は今の場所に村ごと移り、川島神社は現在地より200メートルほど西(元宮)に一度遷座し、再び遷座して今の場所に移ってきたという。ここは長明旧寺の跡地だった。
 村人の話では、川島神社のことをちょくちょく訊きに訪れる人がいるということで、熊野権現が川島神社のことだと村人はいっている。しかし、だからといってそれが正しいとは限らない。

『延喜式』神名帳の注釈書、『特選神名牒』(とくせんしんみょうちょう/明治9年完成)は川島神社について、愛智郡鳴海庄沓掛村の鹿島明神社という説と、川村の熊野社がそうだとする説があることを紹介しつつ、「明確ならず故今決めがたし」と書いている。
 熊野権現を川島神社と改称したのは明治15年のことなので、その頃までにここということにしようとなったのだろう。

 津田正生は沓掛村の鹿島明神説を採り、『尾張国神社考』の中でこう書く。
「山田荘沓掛村、宿村といふ切(せこ)にいま、鹿島大明神と呼やしろぞ是なるべき河島(かしま)と鹿島(かしま)と同語をもて戦國の後武甕槌命と誤る成べし 【兼子氏曰】かしまの社に古物の高麗犬あり。いま社家なし 【和名抄】両村郷」
 もともと川島(河島)神社だったのが「かしま」違いで鹿島社になってしまったといっている。

『郷土誌かすがい 第52号』の「伝承による尾張古代考2」の中で井口泰子氏は、「川島神社の祭神もヲトヨノミコトである」と書いている。
 かなり突飛な説だけど、情報源はどこだろう。他で川島神社の祭神をオトヨ(乎止与命)としているのを知らない。
 オトヨは尾張氏の祖神・アメノホアカリ(天火明命)の子孫で、初代尾張国造(おわりのくにのみやつこ)とされる人物だ。ヤマトタケルの妻で草薙剣を祀る熱田神宮を創建したミヤズヒメの父であり、息子にタケイナダネ(内々神社祭神 / web)がいる。タケイナダネの子がオツナネ(針綱神社祭神 / web)で、その子オハリハリナネ(針名神社祭神)と続く。
 オトヨは熱田神宮の境内摂社・上知我麻神社で祀られている。下知我麻神社では妃の真敷刀俾命(ましきとべのみこと)が祀られ、どちらも式内社だ。かつては南区の星宮社に祀られていたともいう。
 もし、本当に川島神社の祭神がオトヨだとすれば、川島神社に対する認識を大きく変える必要があるけど、個人的にはそれはちょっとどうかと思う。確かに、志段味古墳群や尾張氏の拠点だったとされる東谷山(尾張戸神社)もあるし、創建したのは尾張連の誰かという可能性はあるにしても、そもそもの祭神がオトヨだとしたら、オオトマベの名前など出てこなかったのではないか。

 今の川島神社がどういう神社なのか、はっきりしたことは言えない。もともとオオトマベを祀る神社として建てられたのであれば、それはかなり重要だ。尾張連沖津がどういう人物だったのか、それも鍵を握っている。
 式内の川島神社がどこのことなのかも、分からないとしか言えない。沓掛の鹿嶋社(愛知県豊明市)を訪ねることがあれば、そのときこの問題は再検討することにしたい。
 歴史がどうだったかはともかく、今はオオトマベとイザナミのふたりの女神を祀る神社ということでいいのではないかとも思う。

 

作成日 2017.2.24(最終更新日 2019.1.17)

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川嶋神社に初参拝

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