現住所は呼続4丁目で、旧住所は呼続町字野屋だった。江戸時代は櫻村にあったということで、今でも桜神明社と呼ばれることが多い。すぐ北にある名鉄の駅は桜駅だ。 境内の説明板によると、創建年は不明。本殿は古墳の上にあり、大正5年(1916年)に近くにあった熊野三社をここに移して合祀したとのことだ。 神明社に移された熊野三社は平安時代創建という古い神社で、今の鯛取通一丁目(地図)あたりにあり、松や杉の大木が鬱蒼と生い茂る五百坪ほどの境内を有していたという。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)には樹林マークに囲まれた鳥居マークがあり、大正9年(1920年)の地図からは鳥居マークは消えているから、間違いなさそうだ。 『愛知縣神社名鑑』は「創建は明かではない。明治5年7月、村社に列格し、昭和15年10月15日、指定社となる」と簡単に説明するのみだ。
このあたりは、鎌倉街道と塩付街道が交差する交通の要衝だった。南の星崎や呼続などで精製された塩を信州方面へ運ぶために作られた道が塩付街道で、鎌倉街道は古東海道とは別の新しい道で、のちの東海道の元にもなった。 地形を見ると、神社は笠寺台地のちょうど中央あたりに位置する。近くで弥生時代の集落、見晴台遺跡や桜貝塚などが見つかっていることから、古くから人が暮らしていた土地だったことが分かっている。 桜神明社古墳と名付けられた古墳は、直径が36メートルほどの円墳で、出土品の須恵器などから5世紀末に造られたものと考えられている。前方後円墳という可能性もあり、いずれにしてもこの地を支配していた首長クラスの人物の墳墓と言えそうだ。 5世紀末から6世紀初めにかけては、尾張地方でたくさんの大型古墳が造られた時期に当たる。この頃までには尾張氏がこの地方を統一していたと考えられるため、尾張氏一族でなかったとしても、その関係氏族のものである可能性は高い。 かつては比米塚(ひめづか)と呼ばれていたようで、姫塚の字を当てることもあったらしい。だとすれば、被葬者は女性の可能性もある。 墳丘の西と北に周濠の一部が残っており、円墳部分も元の形状をよく保っている。 いつ誰がこの上に神明社を建てたのかは、やはりよく分からない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の櫻村の項はこうなっている。 「社四ヶ所内 八幡 権現 神明弐社 村中支配 社内六反壱畝弐拾弐歩 前々除」 神明2社のうちのどちらかが今の呼続の神明社だとすれば、前々除となっていることから1608年の備前検地以前からあったということになる。 『尾張徇行記』(1822年)はこう書く。 「当寺(東宝寺のこと)控神明祠境内一反九畝歩余、熊野祠境内五畝余、八幡祠境内三反七畝歩、地蔵堂境内一畝余、倶ニ御除地」 「今東宝寺書上ニ拠レハ、八幡祠熊野権現祠神明祠一区ハ寺支配ニナリ、神明祠一区ハ村支配ニナレルトミヘタリ」 もともと村で支配していた四社のうち、八幡、熊野、神明は江戸時代のどこかで東宝寺(地図)の支配になったようだ。 『尾張志』(1844年)はこうだ。 「神明ノ社 熊野ノ社 迎山(ムカヒ)といふ處にあり 八幡ノ社 大地欠(ダイチガケ)といふ地にあり 神明ノ社 田中にあり」 ここは田中の神明社ではなさそうなので、先頭の神明社がそうなのだろう。
祭神について少し分からないことがある。 天照皇大御神は神明、伊佐那岐命、事解之男命、速玉之男命は熊野三社として、應神天皇、木花咲耶姫命、倉稲魂命、五男三女神はどこから来たのか。 普通に考えると、途中で八幡と浅間と稲荷を合祀したということになる。しかし、櫻村の八幡は八幡社(呼続)だろうし、村に浅間があったという情報はない。稲荷社くらいはあっただろうけど、五男三女神が一番よく分からない。 一般的にはアマテラスとスサノオの誓約(うけい)で生まれた神とされるのだけど、江戸時代から祀っていたとすれば、神仏習合の八王子の可能性が高い。 境内社として秋葉社と津島社がある。
なんとなくざわざわして落ち着かない印象を受けたのは、すぐ横に線路があって桜駅に近いというだけではないような気がする。 神明造りの社に、アマテラスと熊野権現と應神天皇とコノハナサクヤヒメと稲荷神と八王子神を一緒に押し込めるというのは、どう考えても無理がある。しかも、それが古墳の上に乗っているのだ。大正期からここ百年程度で落ち着くはずもない。 この先でこの神社が更に縮小されるとか移転されるとなったとき、初めてここの神々は一致団結して自分たちを守ろうという気になるのかもしれない。 桜神明社という華やかで清浄な感じの名前から想像できないような激しいせめぎ合いが続いている神社という私の妄想は当たっているのか外れているのか。
作成日 2017.4.19(最終更新日 2019.8.6)
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