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神明社(明正)

熱田新田の番割氏神の一番西

明正神明社

読み方 しんめい-しゃ(めいしょう)
所在地 名古屋市港区明正1丁目98 地図
創建年 1779年(江戸時代中後期)
旧社格・等級等 指定村社・十二等級
祭神 天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
アクセス あおなみ線「名古屋競馬場前駅」から徒歩約43分
駐車場 なし
その他 例祭 10月5日
オススメ度

 江戸時代前期(1646-1649年)に尾張藩初代藩主・義直の命によって作られたのが熱田新田で、一番から三十三番割に分けられていた。そのうちの三十一番割の氏神が、この明正(めいしょう)の神明社だった。
『尾張志』(1844年)はこう書いている。
「天照大神豊受大神を祭るよし云り當村は廣井村淺間社の境内に有しを安永八年己亥年九月此處に移して齋祭る社覆高八尺九尺四面石垣高四尺壹丈四面拝殿鳥居及修造の棟札もあり是當所三十一番割の氏神なり」
『愛知縣神社名鑑』もそれにならってこう書く。
「この地は尾張藩徳川義直の命により順次開発した熱田新田の三十一番割の氏神、安永八己亥年(1779年)9月22日、広井浅間社の境内に鎮座の神明社を遷し祀ると『尾張志』明治5年7月、村社に列格し、昭和4年9月10日、指定社となる。昭和35年秋本殿、社務所を改築した」

 廣井村の淺間社というのは、今の那古野の淺間神社地図)のことだ。この淺間社にあった神明社を熱田新田三十一番割の氏神として移したという。これはかなり珍しいパターンだ。
 廣井村の淺間社は名古屋城築城以前からあった神社のひとつで、もともと廣井村の河原というところにあったのを1647年に現在地に移したという。
 現在の淺間社は四間道(しけみち)と呼ばれる通り沿いにあるのだけど、これは1700年の大火の後に延焼対策として道を四間に拡げたことから呼ばれるようになったもので、神社の遷座が1647年であれば、四間道ができる前ということになる。四間道の一本東の通りが美濃路だったのに、どうして美濃路沿いでなかったのかが少し気になる。
 淺間社に神明社がいつ祀られたのかは分からない。わりと古いかもしれない。

 それにしても何故、神明社を伊勢から勧請するのではなく、名古屋城下の廣井村淺間社の境内社だった神明社を移したのだろう。その理由がよく分からない。何か事情なり必然があったのだろう。
 祭神はアマテラスだけでなく豊受大神(トヨウケ)も祀ったと『尾張志』にある。トヨウケは外宮の神なのだけど、現在はアマテラスのみとなっている。

 明治以降、ここは小碓村だったところだ。その後、小碓町などができて、昭和53年(1978年)に小碓町と当知町の各一部より明正が成立した。
 明正は庄内川に架かる明徳橋と正徳橋のそれぞれ一字を取って名付けられた。

 今昔マップの明治中期(1888-1898年)を見ると、すでに現在地に鳥居マークが描かれている。最初からここに建てられたと考えていいだろうか。
 神社のすぐ上の道が百曲街道で、熱田新田の北の堤防に当たる。中川区と港区の境界線が波を打っているのは百曲街道の名残だ。この道の北が江戸時代初期までの海岸線だった。神社のあたりは旧街道の面影を少しとどめている。
 神社があるのは四つ辻で、集落の中心あたりに位置する。
 すぐ西にある日蓮宗の妙光寺は江戸時代後期の1849年に東起庵(中川区東起町)として創建されたもので、現在地に移して妙見堂と改め、昭和16年(1941年)に現在の寺号となった。
 少し北にある鳥居マークは東起の白山社地図)で、戦国時代に創建されたとされる。
 大正から昭和初期にかけては大きな変化が見られない。戦後になってもあまり変わらず、区画整理されて宅地化したのは1950年代以降のことだ。
 1990年代の地図でもまだ田んぼマークが描かれているから、近年まで田んぼが残っていたようだ。

 境内にはクロガネモチやアキニレの保存樹がある。アキニレが傾いているのは伊勢湾台風の暴風によるものだという。
 お堂は三十一番割観音堂で、二十九番・三十番・三十一番・三十二番・三十三番の観音が集められているようだ。

『尾張志』によると、番割の氏神は一番割の八劔社から三十一番割の神明社まで12社あったとある。
 ということは、この三十一番割の明正神明社が熱田新田の中で一番西の氏神ということになる。
 現存する番割の観音堂では、この三十一番割観音堂が西のゴールに当たる。

 

作成日 2018.8.1(最終更新日 2019.7.26)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

熱田新田三十一番割の氏神だった明正神明社

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