富士浅間神社(大須)

何故あの時代この場所に浅間社だったのか

大須富士浅間神社

読み方 ふじせんげん-じんじゃ(おおす)
所在地 名古屋市中区大須2丁目17-35 地図
創建年 1495年(戦国時代前期)
旧社格・東急等 郷社・九等級
祭神 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)
大山祗命(おおやまつみのみこと)
彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)
アクセス 地下鉄鶴舞線「大須観音駅」2番出口から徒歩約6分
駐車場 なし
その他 例祭 6月11日
オススメ度

 創建のいきさつや歴史についてはわりとはっきりしているのだけど、個人的にはよく分からない神社だと感じる。
 何故この場所だったのか? 後土御門天皇はどうして尾張の地に浅間社を建てることを命じたのか? そもそも何故浅間社だったのか?
 これらの問いに対する明確な答えが思いつかない。

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。
「古くは富士権現又浅間宮と称し明応四年(1495)六月一日、後土御門天皇の勅を奉じて駿河本宮富士浅間神社の神主小林修理が勧請し、日置荘浪越山、今の社地に鎮座する。尾張国守護斯波治部大輔善廉の一族、前津小林城主牧下野守義長の息若狭守与三左ヱ門尉源長清尊信深く大永六年(1526)本殿再建」

 1495年は戦国時代の前期に当たる。
 1467年に応仁の乱が始まり、1477年に一応終結はしたものの、室町幕府は弱体化し、朝廷はとっくに権力を失っている。下克上の時代で、各地で土地の奪い合いから戦が起きていた。
 後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)は1464年に即位して、1500年に58歳で崩御している。勅を出したという1495年は晩年だ。
 即位してほどなく応仁の乱が始まって京の寺社や屋敷などが焼かれたため、天皇は10年間も足利義政の室町第(花の御所)で避難生活をしなければならなかった。
 各地の荘園が略奪されたりして朝廷の財政はますます苦しくなっていき、死後に葬式代が工面できずに40日も放置されたという話もある。
 お金もないし室町第ではやることもないので何をしていたかというと、政治をやる気をすっかりなくした将軍の義政と酒を飲んだり、密通したり、歌を詠んだりしていた。将軍の正室の日野富子とも関係があったという。
 1493年に起きた明応の政変(めいおうのせいへん)に腹を立てて譲位しようとするも認めてもらえず、その後、5回も譲位しようとしつつ結局最後までずるずるといくことになった。
 晩年は少しやる気を出して朝廷の儀式を復活させようとしたり、吉田神道に力添えをしたりした。尾張に浅間社を建てるように命じたのもその一環だったということだろうか。
 後土御門天皇は仏教徒で阿弥陀仏を信仰していたという。
 それにしても、何故この場所だったのか、という疑問が残る。 

 駿河本宮富士浅間神社(富士山本宮浅間大社/web)は『延喜式』神名帳(927年)に載る名神大社で駿河国一宮だ。
  富士山を神格化した浅間大神を祀る神社なのだけど、浅間(あさま/せんげん)の由来については諸説あってはっきりしない。
 浅間大神とコノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫命)がどうして同一視されることになったのかもよく分からない。
 ニニギと結婚して一夜で身ごもったことを疑われて、身の潔白を証明するため火を放った産屋で3人の子を産んだことと、火山である富士山とを重ね合わせたということだろうか。
 神仏習合時代は浅間大菩薩とも呼ばれた(本地仏は大日如来)。
 浅間信仰が各地に広まったのは中世のこととされる。名古屋からも冬のよく晴れた日に富士山が見えることがあったようだけど、そのことよりも、富士塚と呼ばれる小山を築いて浅間神を祀ることが各地で流行した。
 大須の富士浅間神社もそうした神社のひとつと考えていいだろうか。
 後土御門天皇の勅命というのが本当だったのかどうなのか、どういった内容だったのかはともかくとして、駿河本宮富士浅間神社の神主である小林修理なる人物が自ら勧請して建てたというのであれば、その事実はわりと重いんじゃないだろうか。
 尾張のこの地を選んだのは後土御門天皇だったのか、小林修理だったのか、あるいは別の人物だったのか。

 この富士浅間神社は古墳の上に建てられており、富士浅間神社古墳と呼ばれている。すぐ北には那古野山古墳があり、その北には日出神社古墳、西には大須二子山古墳(消失)がある。
 那古野山古墳の後円墳部分に盛り土をして小山を作り、富士塚に見立てたのは中世のこととされている。それがいつだったのかははっきりしない。
 時代背景と浅間信仰、古墳を富士塚に見立てたということが揃えば浅間社をここに建てたというのも一応納得はできるのだけど、戦国時代のこの地がどういう場所だったのかと考えると、やや釈然としないものが残る。
 熱田台地の中央やや北寄りに位置し、当然まだ名古屋城(web)はできていないからここは城下町ではない。古墳が集まっているくらいだから、民家があるようなところではなかっただろう。
 近くの古い神社というと、850メートルほど北西の洲嵜神社地図)、そこから北900メートルほどの泥江縣神社地図)、450メートルほど南の日置神社地図)がすでにあった。
 遺跡でいえば、大須古墳群の北に白川公園遺跡、旧紫川遺跡、竪三蔵通遺跡という縄文時代の遺跡が知られてる。
 戦国時代の人々にとって古墳とはどういうものだったのか。被葬者についてはもう分からなくなっていただろう。戦国時代も進むと、古墳を軍事拠点として利用したりもしたし、江戸時代に入ると町作りの邪魔だといって取り壊してしまったりした。
 名古屋では古墳の上に白山社を建てるパターンが多いのだけど、浅間社は他にあまりないんじゃないかと思う。

  名古屋城が築城されてこのあたりが寺町になると、富士浅間神社はここに建てられた清寿院の中に取り込まれることになる。
 清寿院は修験の寺で、富士山観音寺ともいった。
『尾張名所図会』(1844年)にこうある。
「山城國醍醐の三寶院の派、尾張・美濃二箇國の修験の先達なり。 本尊富士権現は土御門天皇(ママ)の勅によりて、駿河の浅間大神の神職、此地に勧請して造営ありしなり。中世前津小林の城主牧與三左衛門尉源長清、富士権現を崇信して、七度参詣の志願を発し、三度駿河に下りて登山ありしが、晩年に及びて遠路に堪へがたく、残る四度を此社に詣でて、其願をはたせし故、其砌當社を再営ありしとぞ」
 前津小林城主の牧長清は富士権現を信仰していて7度富士山に登るぞと誓いを立てて3度までは登ったものの、年を取ってもうしんどくて無理ということで残り4度は浅間社を詣でて7度登ったことにして、そのお礼として再建したというのだ。
 ということはつまり、牧長清が社殿を再建する前にすでに富士塚があった可能性が高いということになる。
『尾張徇行記』(1822年)は少し違うニュアンスのことを書いている。
「(長清は)富士山七度禅定の願を発し、三度登山せらしが、年老且つ一地の主人たる身の軽々しく旅行もままらず、特さら戦国にて路次も遠慮多かりしかば、其本意を果す事も不能、故に城の近境に富士塚七丘築き、浅間の神を勧請して、七度禅定に擬せらる、今の清寿院浅間社是也 又城南三輪社 春日社 及村西蘆御堂等をも再建重修せられし」
 これが正しいとなると、7度の富士山登山を3度で断念した後に城の近くに富士塚を七つ築いて、その後に浅間社を勧請したということになる。
 三輪社と春日社については牧長清の再建というのが樋口好古の見解ということだ。
『尾張名所図会』の絵図に清寿院が描かれている。それを見るとかなり広い境内だったことが分かる。すぐ隣には大須観音(真福寺)があった。この時代の大須観音には五重塔も建っていた。
 南門から入って左手に富士権現とある。
 その北隣には飯綱権現が描かれている。飯綱山の山岳信仰で、このあたりにも修験の寺ということがうかがえる。
 書院の奥にこんもりした山が描かれ、庚申山とある。これが古墳に盛り土をして富士塚に見立てたもので、後に浪越山と呼ばれることになる。

 江戸時代の富士権現は、尾張徳川家の安産祈願の祈祷所となり、尾張藩が代々修造を行った。
 明治の神仏分離令で清寿院は廃寺となり、富士権現はふたたび独立して富士浅間神社となった。
 神社の境内は大きく狭められ、浪越山は明治12年(1879年)に愛知県で初の公園・浪越公園として一般開放された。
 明治43年(1905年)に鶴舞公園ができたことに伴い廃止となり、現在は那古野山公園としてわずかに古墳の一部をとどめるのみとなっている。
 富士浅間神社の社殿は昭和4年(1929年)に改築されて現在に至っている。大須の空襲ではほとんど被害を受けなかったため、古い木材などが残るという。
 かつての清寿院境内にあった尾張三名水のひとつ清寿院柳下水が現存している(他は蒲焼町の扇湯の井戸と清水の亀尾水)。
 将軍に提供されるなどした名水だそうだけど、今も飲めるかどうかは分からない。大須商店街の喫茶店の前にある。

 やはり最大の疑問は、どうして後土御門天皇は浅間社を勧請して建てるように命じたかという点だ。
 浅間大神とは中世の人たちにとってどんな神と考えられていたのか、室町幕府の行き詰まりから戦国時代に突入して先行きの見えない中、天皇は浅間大神にどんな願いを託したのか。
 そのあたりが理解できないと、この富士浅間神社も理解できないような気がする。

 

作成日 2017.8.5(最終更新日 2019.3.10)

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

創建の理由までは伝わっていない大須富士浅間神社

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