名古屋市内におけるほとんど唯一の生き残りといっていい御鍬神社(おくわ-じんじゃ)が港区福屋にある。 他では、名東区猪子石の神明社に御鍬神社があったという記録がある他、いくつかの神社の境内社として残っているくらいだ。 御鍬様の祠は江戸時代にたくさんあったはずだけど、ほとんどは廃止になるか合祀されて忘れ去られてしまっている。
ここは1663年(寛永20年)に鬼頭景義によって開発された西福田新田で、干拓当初は池や川ばかりの土地で作物がなかなか育たなかったため、福田川を開削したり、戸田川を改修したり、水路を整備したりして、豊作を祈願して御鍬様を祀ったのが始まりと伝わっている。
御鍬様信仰は伊勢が発祥というのはどうやら間違いないようなのだけど、その起源は諸説あってはっきりしない。 伊勢の神宮(web)の外宮で行われる御田植初め神事が発祥だとか、神宮で鍬型の榊が発見されたことに始まるなどという説がある。 外宮の御師(おんし)が仕掛けたものや、神宮の別宮である伊雑宮(いざわのみや)から発したものもあったようで、木で作った小さな鍬形が村に送られてきて、それを神輿に納めて祀り、村から村へと送り継いだのだという。そして、どこかの村の祠で祀られることになり、それが後に神社に発展することもあったようだ。 伊勢から発して、美濃や尾張、三河を通って信州方面や東海道筋に伝わっていったとされる。今でも長野県や岐阜県に御鍬神社が多く残っているのは、村から村へと送り継いだものがそこで止まったためと考えられる。名古屋にわずかしか残らなかったのは、先へ送ってしまったからではないだろうか。 それとは別に60年に一度、壬戌(みずのえいぬ)や丁亥(ひのとい)の年にだけ許される御鍬祭というものがあった。 今でも御鍬祭が行われているところは名古屋市内にあるのかどうか把握していない。名古屋の隣の尾張旭市にある渋川神社(web)では御鍬祭(大鍬祭)が行われている。 最も流行したのは江戸時代中期で、明治以降はだんだん廃れていったようだ。 現存している御鍬神社は、外宮の神である豊受大神を祀っているところが多い。
鍬(くわ)と鋤(すき)はごっちゃになっているところがあって正しく説明できる人は少ないかもしれない。 平べったいものもフォークみたいになっているものも鍬で、刃の付き方によって鍬か鋤か分けられている。 柄に対して直角に刃が付いているのが鍬で、平行に付いているものが鋤だ。 鍬は振り下ろして土に食い込ませて使うのに対して、刃を前方に押し込んで使うのが鋤ということになる。鋤はスコップのようなものと覚えておくと区別しやすい。 鍬は農耕の始まりとともに生み出されて使われた最古の農具と考えられている。1万5千年前に東南アジアでイモ作農業が行われるようになったときから使われたという。 日本に伝わってきたのは弥生時代のようだ。稲作が伝わったということは、農機具も一緒に伝わったということで、そのときが初ということになるだろうか。 日本にとっても鍬というのは農作業のシンボルのようなものだったわけで、農耕の神のように祀るというのは自然なことといえる。
農機具の多くが機械化された現代でも各農家に鍬の一本くらいはあるだろうか。今の時代に鍬を神様に見立てて祀るなんてことは馬鹿馬鹿しいと思うかもしれないけど、道具に感謝することは悪いことではない。 明治の神仏分離令や神社合祀政策は、こういった日本古来の伝統的な信仰も根こそぎ葬り去ってしまった部分がある。 もう少し境内社としてでも御鍬社が残ってもよかったんじゃないかと思う。
作成日 2018.8.24(最終更新日 2019.8.1)
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