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八王子神社春日神社


八王子神社は重要な鍵を握っているかもしれない



八王子神社春日神社

読み方はちおうじ-じんじゃ-かすが-じんじゃ
所在地名古屋市北区清水2丁目15-20 地図
創建年伝・697-707年(飛鳥時代後期)/1226年(鎌倉時代前期)
旧社格・等級等指定村社・十一等級
祭神天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)
天穂日尊(あめのほひのみこと)
天津彦根尊(あまつひこねのみこと)
活津彦根尊(いくつひこねのみこと)
熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)
田心姫命(たごりひめのみこと)
湍津姫命(たぎつひめのみこと)
市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
経津主命(ふつぬしのみこと)
天児屋根命(あめのこやねのみこと)
比売神(ひめがみ)
アクセス名鉄瀬戸線「清水駅」から徒歩約5分。
駐車場 あり(無料)
その他例祭 5月第3日曜日
オススメ度

 名古屋城(web)築城に際して移された神社がいくつかある。八王子神社もその中のひとつだった。
 春日神社はあとから合併したもので、もともとあったのは八王子の方だ。
 ここに至るまでの経緯が少しややこしいので順を追って説明したい。



 名古屋台地の北は名古屋城築城以前、那古野庄今市場と呼ばれていた。
 のちに三の丸となるあたりに天王(亀尾天王社)、若宮、八王子があった。能楽堂のある東、名古屋農林総合庁舎や水資源機構中部支社のあたり(地図)に八王子と天王が並び、少し離れた東、名古屋法務局があるあたり(地図)に若宮があった。
 若宮は今の若宮八幡社(栄)で、天王は今の那古野神社だ。
 まず最初に建てられたのが若宮と八王子だったとされている。文武天皇時代というから697-707年、飛鳥時代の終わりだ。
 若宮は『延喜式』神名帳(927年)の孫若御子神社(ひこわかみこじんじゃ)のことではないかという説があるのだけど、ここではいったん保留する。
 若宮と八王子は一緒に建てられたのか、時期がずれていたのかは分からない。
 天王は平安時代中期の911年(延喜11年)に醍醐天皇の勅命によって創建されたとされる。
 都では菅原道真怨霊問題や、天災、飢饉、疫病などが続発していた時期で、各地でそれを鎮めるための神社が建てられたのだろうと想像する。神仏習合の時代だから、祀られたのはおそらく牛頭天王だっただろう。



 この流れを踏まえた上で祭神について考えてみる。
 まず、若宮は式内・孫若御子神社なのかそうでないのかがやはり問題となる。
 700年代初頭の創建であれば、『延喜式』神名帳に載る資格は充分にある。しかし、尾張国の國内神名帳にも載っていない。となると、若宮は孫若御子神社のこととしないと逆に不自然だ。
 八王子、天王も『延喜式』神名帳や『尾張國内神名帳』に載っていない。
 天王の創建が911年というのであれば、『延喜式』神名帳完成の927年に間に合ったはずだ。醍醐天皇勅命の社が官社とされなかった理由は何だったのか。まだ新しすぎたということだろうか。
 孫若御子神社は現在、熱田神宮の境内社として天火明命を祀るとしている。本来の祭神は応神天皇だとか雅武彦王だとか瓊々杵尊だとか、いくつかの説があってはっきりしない。
 八王子の祭神については、五男三女神なのか牛頭天王の8人の皇子なのかが問題となる。
 五男三女神はアマテラスとスサノオの誓約(うけい)から生まれたとされる神であり、8皇子であれば牛頭天王と頗梨采女(はりさいじょ)との間に生まれた太歳神、大将軍、太陰神、歳刑神、歳破神、歳殺神、黄幡神、豹尾神の8人ということになる。
 牛頭天王を祀る天王と一緒にあったというのであれば、牛頭天王の8人の子供、八王子神を祀っていたと考えた方が正しいように思うのだけど、そうとも言い切れない。年代的に合わないのがその理由だ。
 八王子の神を東京八王子の深沢山に初めて祀ったのは華厳菩薩妙行で、916年とされている。華厳菩薩妙行が八王子の深沢山で修行中に牛頭天王と八王子が現れたとする。
 那古野の八王子の創建が700年頃とすると祭神を八王子神と考えるのは難しいのではないか。
『尾張名所図会』(1844年)は「八王子社(はちおうじのやしろ) 志水町の北行当にあり。五男三女神を祭る事、諸國八王子の社の例に同じ」と書いているから、江戸時代は五男三女神を祀るという認識だったようだ。



 1610年、那古野庄にあらたに名古屋城が建てられることになり、天王、若宮、八王子は城外に出されることになった。
 その際、神託を聞く占いをしたところ、若宮は南へ、八王子は北東の志水(清水)に移すことが決まった。しかし、天王だけは何度くじを引いても移してはいけないと出たため、そのまま三の丸に取り込む格好で残すことになった。
 天王を城内の守護、若宮を城下の人々の守護、八王子を城の東北の守護とした。
 名古屋城築城後、三の丸の天王の隣に東照宮が建てられた。明治に入って天王と東照宮は城外に出され、天王は那古野神社と名前を変えた。
 少し気になったのは、『尾張名所図会』の中で描かれた「亀尾天王社」の絵図と説明だ。天王社の摂社として、本社の右に八王子社、左に兵主社(ひょうすのやしろ)があり、「寛永6年(1929年)に源敬公(げんけいこう/尾張初代藩主・義直のこと)新に御造営なり」とある。
『尾張志』にも「八王子社と、兵主社は、源敬公御建立にて、寛永6年あらたに祠を建つ」と書かれている。
 名古屋城築城のとき外に出した八王子神を、城内に残った天王社の本社脇にあらためて勧請したのはどういうことだったのだろうか。



 春日社もけっこう古い神社で、鎌倉時代の1226年創建と伝わっている。清水(志水)においてはこちらの方が古い神社ということになる。
『愛知縣神社名鑑』はこう説明している。
「八王子神社はもと那古野庄、今市場(今の名古屋城南部)に鎮座し、若宮八幡社と共に同じ境内で、第四十二代文武天皇の御代(697-707)の奉斎という。慶長十五年(1610)築城の際神慮により名古屋東北の守護神として、この地に遷座する。明治5年、村社に列格し、明治40年10月26日、指定社となる。昭和20年5月、空襲により焼失、昭和21年仮殿造営、昭和29年社務所、昭和32年5月、社殿復興遷座祭を行う。春日神社は嘉禄二年(1226)の鎮斎と伝える。昭和46年、社殿を八王子神社、本殿西側の境内中に移築し、両社を合併し、十一級社に昇級、社名を改称した。昔から特に小児の守護として崇敬あつく遠近より参詣人頗る多い」
 ここでは若宮と八王子が同じ境内にあったと書いているけど、名古屋城築城以前の絵図では八王子と天王が並び、若宮は少し離れた場所に描かれている。どちらが正しいのか判断がつかない。
 春日神社に関しては1226年創建という以外に詳しいことは分からない。
 現在、神社がある場所は江戸時代の西杉村で、『尾張志』(1844年)には「春日社 八王子社 西杉むらにあり」とあるから、春日社と八王子社は別々にあったことが分かる。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。
「八王子社人青山主馬書上ニ、八王子社内六畝六歩御除地、春日社内一畝二十四歩御除地」
『寛文村々覚書』(1670年頃)がまとめられた頃はまだ杉村は分かれておらず、社は神明、八幡、八王子、蔵王権現の四社としている。春日社がないのが少し気になるところだ。



 かつての八王子社は子供の守り神として崇敬され、祭礼などは大変賑わったと伝わっている。
 明治13年(1880年)に明治天皇が京都に巡幸したとき、清水で休憩した。そのときの記念碑が建っている。
 このときの天皇は東京から中山道と下街道経由で名古屋に到り、京都へと向かった。そのとき休憩した建物が神社の境内に移築されていたのだけど、平成17年に社殿を改築する際、取り壊されて現存していない。



 さほど重要とは思っていなかった神社なのだけど、名古屋城築城以前から名古屋台地の北端にあった神社となれば、ここは重要な鍵を握っていると見なければならない。謎の多い若宮、天王ともども歴史を秘めている。
 いつか誰かがこの謎を解き明かす日が来るだろうか。私にはいまだこれらの神社を最初に祀った人たちの正体が見えていない。




作成日 2017.3.22(最終更新日 2019.9.17)


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