豊田本町神社

豊田本町の歴史の中で

豊田本町神社入り口

読み方 とよだほんまち-じんじゃ
所在地 名古屋市南区内田橋二丁目16-8 地図
創建年 昭和3年(1928年)
社格等  
祭神

熱田大神(あつたのおおかみ)

アクセス

・名鉄常滑線「豊田本町駅」から徒歩約7分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 名鉄常滑線の豊田本町駅(地図)の西、内田橋二丁目に豊田本町神社はある。
 豊田本町という町名はすでにない。駅名その他に名を残すのみとなっている。豊田本町駅の西が内田橋、東が豊で、その南が豊田になる。
 このあたりは江戸期の新田開発に始まり、明治、大正、昭和と様々な土地の変遷や区画整理による町名変更が行われてきたため、土地勘のない人間にとってはそのあたりの事情を理解するのが難しい。
 理解する上でひとつ重要なポイントとして、新堀川の存在がある。
 かつてこの川は精進川(しょうじんがわ)と呼ばれていた。
 千種区一帯の湧き水などを源流として、熱田台地の上を北から南へ蛇行しながら流れ、熱田神宮の東を通って伊勢湾に注いでいた。
 熱田神宮の神職が6月の名越の祓のときにこの川で禊(みそ)ぎをしたことから名付けられたという。
 戦国武将の堀尾金助と母の物語で知られる裁断橋も、精進川に架かる橋だった。
 この川は大雨のたびに氾濫を起こしていたため、住民たちの悩みの種だった。明治16年(1883年)に川を付け替えて運河にする計画が立てられ、明治43年(1910年)に新堀川が完成した。
 精進川は大正15年(1926年)に埋め立てられて消滅している。
 新堀川は中区の堀留水処理センターを起点として、ほぼ真っ直ぐ北から南へ流れ、熱田神宮南の伝馬町と南区の内田橋の間で堀川と合流する。内田橋側から見ると川向こうに宮の渡し跡(地図)がある。
 何故この新堀川がポイントかというと、明治以前の精進川時代は、熱田区の伝馬町と南区の豊田本町のあたりは地続きの土地だったということだ。住んでいる人たちも自分は熱田の南に住んでいるという感覚だったはずだ。
 内田橋の北、新堀川南岸に豊門神社(地図)があり、そのすぐ南に豊田本町神社(地図)がある。ここから少し南西へ行くと豊郷神社(地図)、その南に紀左衛門神社地図)がある。豊田本町駅の東には古傳馬神社地図)といった具合に、このあたりには神社が集まっている。それらはすべて江戸期以降、新田開発された土地に建てられたものだ。
 町名のことをいうと、豊田本町のあたりは昭和60年(1985年)までは豊門町(ほんもんちょう)だった。豊門町ができたのが昭和初期のことなので、その町名も新しい。
 かつての図書町、屋敷町、二条町、明治町などもそれぞれ町名が変わっていて、なかなかに複雑だ。

 豊田本町神社のことをいえば、分かっていることはごく少なく、書くことはあまりない。
 創建されたのは昭和3年(1928年)で、最初は堀田神社(ほりたじんじゃ)という名前だった。
 これは熱田伝馬町の溜屋(たまりや/味噌屋)で、このあたりの大地主だった堀田清右衛門にちなんで付けられたとされる。
 ただ、この神社を建てたのが堀田清右衛門だったというわけではないようだ。
 神社の境内にある加寿稲荷(かじゅいなり)の方が古くからあったといわれている。
 豊田本町神社と改称したのは戦前の区画整理で新町名ができたときだった。
 もともと今より少し東にあり、昭和49年の道路拡張の際に現在地に移された。

  祭神は熱田大神というから、熱田の本宮から勧請したことが分かる。熱田近辺でも熱田社は意外と少なく、昭和初期と考えるとちょっと珍しいといえる。
 境内社にアマテラスを祀る伊勢神宮とカグツチを祀る秋葉社がある他、地蔵菩薩が二体いる。
 弘法堂は昭和3年に神社が創建されたときに境内に移されたものだ。
 第二次大戦の空襲ですべて焼失。戦後に復興されて現在に至る。
 街中の小さな神社も歴史を刻み、歴史を語る。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

豊田本町はなくなっても神社は残った

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