江戸時代の堀越村にあった白山社。 名古屋城(web)築城以前は、庄内川と矢田川に挟まれた狭い土地に、堀越村、新福寺村、名塚村があった。 1610年の名古屋城築城にともなう治水工事の一環として、このあたりの堤防改築工事が行われ、そのとき堤防の内側にあった3つの村は外に出るようにという指示があり、家や寺社ごと庄内川の南に移った。それが慶長19年(1614年)のことだ。 西から堀越村、少し離れて新福寺村、更に少し間を置いて名塚村という位置関係だった。名塚村はすぐ東の稲生村とつながるような格好だった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、まだ江戸時代の集落がそのまま残っているので様子が分かる。 堀越村は江戸時代中期に上堀越村と下堀越村に分かれた。白山社は上堀越村にあり、一緒に移った神明社も当初は寶琳寺(地図)の東にあった(神明社は明治14年に現在地(地図)に移された)。 下堀越村にも白山社があったようなのだけど、それがどうなったのかは調べがつかなかった。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「社伝によれば永享二年(1430)の創祀という上堀越町の産土神として崇敬あつく、明治5年村社に列格する」
同じ堀越村にあった神明社の創建も1430年という。南北朝時代が1392年に終わり、1467年に始まる応仁の乱の前という時代だ。 堀越村がいつできたのかは分からないけど、村の神社の創建が1430年という話が伝わっているのであれば、この時期に集落として発展したということかもしれない。
祭神は伊弉冉尊(イザナミ)となっている。 一般的に白山社は菊理姫(ククリヒメ)を主祭神としているところが多い。 白山総本社の加賀国白山比咩神社(しらやまひめじんじゃ/web)は菊理姫を白山比咩神として、伊弉諾尊(イザナギ)、伊弉冉尊の3柱を祀っている。 加賀国一宮の白山比咩神の創祀は古く、崇神天皇の時代に白山を遙拝する場を作ったのが始まりとされる。その後、奈良時代初期の716年に安久濤(あくど)の森に社殿を建てたと伝わる。 それとは別に白山は山岳信仰の対象でもあり、修験の山として泰澄が717年に開いた。 修業をしていた泰澄の前に九頭龍王(くずりゅうおう)が現れ、自分は伊弉冊尊(イザナミ)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗ったことから、翌718年に御前峰(白山山頂)に祠を建てて白山妙理大権現を祀った。 これが修験道の霊応山平泉寺(後の平泉寺白山神社/web)となり、この二つの勢力は長年にわたってモメ続けることになる。 室町時代になると長く力を持っていた白山比咩神社の力が弱まり、代わって平泉寺が財力と兵力を背景に力を持つようになる。その力関係が逆転したのが1400年代前半のことという。 堀越村の白山社の創建が実際に1430年だとすると、白山比咩神社からではなく平泉寺から勧請したという可能性が考えられる。平泉寺白山神社がイザナミ(伊弉冊)を主祭神としていることからもそれがうかがえる。 『西区の歴史』でも御前峰から勧請したと書いているので、おそらくそうだろう。 室町から戦国時代にかけては白山比咩神社(白山本宮)と平泉寺に美濃国白山中宮長滝寺までが加わって白山山頂の祭祀権を巡る争いが起こり、江戸時代に幕府が間に入って平泉寺に白山山頂本社の祭祀権を与えた。 しかし、明治の神仏分離令で平泉寺が平泉寺白山神社として神社になると山頂本社の祭祀権は白山比咩神に移ることになった。
遠い地で起きているそんな争い事が堀越村の白山社に影響を与えたのかどうかは分からない。 江戸時代が始まると村ごと引っ越しを強要されてそれどころではなかったかもしれない。 鳥居の手前にある大きな楠は、日露戦争(明治37-38年)の後に植えられたものだという。高さ16メートルで、樹齢はもう100年くらいになっており、名古屋市の都市景観重要建築物等指定物件となっている。 境内には連理木(れんりぼく)が2本ある。いったん分かれた幹が再びくっついたものを連理木と呼んで、縁結びや夫婦円満に御利益があると御神木にすることがある。1本でも珍しいのに2本ある神社はここくらいかもしれない。 木々がよく生長しているということもあって、境内は生命力の溢れるいい気に満ちているように感じられた。 祀られているのがククリヒメにせよイザナミにせよ、白山社はやはりどこか女性的な雰囲気があるように思う。
作成日 2018.5.9(最終更新日 2018.12.18)
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