斎穂社

小さな神社にも歴史あり

斎穂社

読み方 さいほ-しゃ
所在地 名古屋市守山区大森5 地図
創建年 不明
旧社格・等級等 不明
祭神 大年神(おおとしのかみ)
御年神(みとしのかみ)
御食津神(みけつのかみ)
事代主神(ことしろぬしのかみ/恵比寿)
大宮賣神(おおみやのめのかみ/大黒天)
アクセス 名鉄瀬戸線「印場駅」から徒歩約16分
駐車場 なし
その他 八劔神社(大森)境外末社
オススメ度

 地域に点在した社を寄せ集めた神社と思ったら、実はけっこうな歴史を持つ神社だった。
 尾張旭市印場にある渋川神社(web)に伝わる話として、天武天皇5年(676年)に、大嘗祭(だいじょうさい)に奉納するための稲を作る場所(国郡)を占った(亀卜/きぼく)ところ、尾張国山田郡に決まり、印場村に斎田が作られたというのがある。
 印場(いんば)の地名は、斎庭(いみには)が斎場(いみば)になり、そこから転じたと津田正生は『尾張国地名考』の中で書いている。
 その斎田で穫れた稲を精選したのが大森で、その後、そこに社を建てて祭ったのが、この斎穂社とされている。もともとは今より少し南の八剣交差点(地図)あたりだったという。かつてそこは東山ノ田と呼ばれていたようだ。

 斎田が作られたのは今の渋川神社があるあたりよりももっと西の東名高速下、大森東口(地図)あたりだったようだ。
 渋川神社の公式サイトや斎穂社の石碑に書かれていることに少し勘違いあるようなので訂正しておくと、まず大嘗祭というのは間違いで、天武天皇5年に行われたのは新嘗祭(にいなめさい/しんじょうさい)だった。大嘗祭は天皇が即位して最初に行う収穫祭で、一度きりしか行われない。それに対して新嘗祭は毎年行う。
 通常であれば、大嘗祭のときのみ亀卜で斎田を決める。新嘗祭は近畿の田んぼで穫れた稲などを使うことになっている。勘違いの要因は斎田を亀卜で決めたなら大嘗祭のことだろうと思い込んでしまった点にある。天武天皇5年は676年で、大嘗祭は天武天皇2年(673年)に行われた。
 斎田を決める亀卜は、「点定の儀」と呼ばれ、東日本から「悠紀(ゆき)」を、西日本から「主基(すき)」をそれぞれ選ぶ。そこで選ばれた国(郡)に斎田を作り、そこで穫れた稲を新嘗祭の儀で使う。
 先ほど書いたように普通なら大嘗祭でしか行わない斎田の亀卜をどうして新嘗祭でも行ったかといえば、天武天皇治世の世の中がとんでもなく大変なことになっていたからではないかと思う。

 まず地震が続発して大きな被害を出し、続いて起こったのが日照りだった。雨がまったく降らず、大飢饉となり餓死者が続出した。彗星が地球にやってきて人々は不吉だとおびえ、日食も起こった。地震は更に続き、天武天皇が病気になり原因を占ったところ草薙剣が祟っているからということであわてて熱田社(web)に返還すなんてこともあった(686年)。
 とにかくそんな状況なので、いうなれば非常事態宣言だ。神に願い、仏に祈り、罪人の刑を軽くし、放生会(生きているものを放して徳を積む)の令を出し、そういったあらゆる手を尽くしてなんとかしようとする政策の一環として、新嘗祭のための斎田を亀卜で決めたと思われる。現実問題として、近畿内でまともに稲が実らない状況だったのかもしれない。
 どうして天武天皇がそんなにも必死になったかといえば、古代日本では(大陸の思想でもあるのだけど)、徳のない人間が上に立つと悪いことが起きると考えられていたからだ。そうなると、天皇(大王)といえども存在を否定されてしまう。日の巫女である卑弥呼は日食が立て続けに起きたことで殺されたという説もある。
 こうした時代背景を考えると、わが村が斎田に決まって名誉なことだなどとのんきに構えていられなかったであろうことは容易に想像ができる。もし斎田に稲が実らなかったりしたら、天武天皇の怒りを買ってどうなってしまうか分からない。相当な重圧があったはずだ。
 とはいえ、印場や大森あたりで一度でも斎田に選ばれたことはやはり嬉しいことだと後年の人々は思ったに違いない。それはもう、神社のひとつやふたつは建てようというものだ。
 渋川神社に碑が建っている他、尾張旭市に直会神社がある。直会(なおらい)というのは、斎田の稲穂を供えたあとに人々が酒や食べ物をいただく儀式で、いってしまえばお疲れ会の打ち上げのようなものだ。その跡地に直会神社が建てられたとされている。

 稲の収穫を祝うという意味で、祭神は大年神(オオトシ)、御年神(ミトシ)、御食津神(ミケツ)と穀物神、食物の神を取りそろえている。
 オオトシは年神ともいい、毎年正月に各家庭で迎える年神さまだ。もともと穀物神だったのが、いつしか縁起のいい来訪神となっていった。
 御年神(ミトシ)はオオトシの子で、父神と同じく食物の神とされる。
 ミケツは食物神の総称のようなもので、保食神(ウケモチ)などと呼ばれたり、お稲荷さんに祀られている宇迦御魂(ウカノミタマ)のことともされる。
 それ以外の事代主神(ことしろぬしのかみ/恵比寿)や大宮賣神(おおみやのめのかみ/大黒天)、天王社や千手観音などは昭和48年(1973年)の区画整理でこちらに移ってきてから追加されたものと思われる。
 ここに来る前は伊保利里塚(いぼりづか)や疣塚(いぼづか)と呼ばれていたというから、神社というより祠だったのだろう。
 明治11年(1878年)に、内務省から令達が来て大森村八剣神社(八劔神社)の末社となった。このとき一度、八劔神社の境内に移されたという話があるのだけどはっきりしない。昭和48年の区画整理のときに、あらためて外に出して独立させたということも考えられる。
 今昔マップを見ても、そのあたりの経緯はよく分からない。
『尾張志』(1844年)、『尾張徇行記』(1822年)、『寛文村々覚書』(1670年頃)に斎穂社は出てこない。神社という規模のものではなく小さな祠程度だっただろうか。

 ところで神社合祀政策というのをご存じだろうか。
 明治初めの神仏分離令はよく知られているところだけど、神社合祀についてはあまり語れることがなく知らないという人も多いかもしれない。これは神仏分離令以上にとんでもないものだった。
 明治政府は神道を国の基本と決め、神社における神と仏を分けるように命じたのが神仏分離令だった(1868年/明治元年)。
 その後、明治6年(1873年)に内務省が設置され、その中に神社局というのが作られた。
 こいつがくせもので、合理化を進めるために1町村1社を原則として、それ以外は全部合祀するようにというとんでもない令を出してきた。いろいろそれらしい理由はつけたけど、実質はお役所仕事の経費削減ということだった。神社の数が多すぎて管理もできないしお金もかかるからとにかく整理して数を減らすようにということだ。
 最初はそれほどでもなかったものの、明治39年(1906年)の勅令が大きく、最終的に神社の数は半分近くまで減らされることになる。明治の初めには20万社近くあったのが、12万社ほどになってしまった。
 一番ひどかったのが三重県や和歌山県で、三重県などは9割減という信じられない激減となったのだった。和歌山県では熊野を中心に壊滅的な打撃を受けることになる。
 このときに由緒ある神社なども合祀されて、その後よく分からなくなってしまったものも多い。
 神社合祀の反対運動に立ち上がった南方熊楠や、仏教美術の保護を訴えた岡倉天心のような人物がいなければ、もっと多くの貴重な遺産が失われていたことだろう。

 小さな神社にも歴史あり。あらためてそのことを教えてくれたのが斎穂社だった。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

大森斎穂社を訪ねていくつかのはてなが残った

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