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神明社(沢上)


源行家の話がメイン



沢上神明社

読み方しんめい-しゃ(さわかみ)
所在地名古屋市熱田区沢上2丁目4−23 地図
創建年1818年(江戸時代中後期)
旧社格・等級等無格社・十四等級
祭神天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アクセスJR/地下鉄/名鉄「金山駅」から徒歩約12分
地下鉄名城線「西高蔵駅」から徒歩約12分
駐車場 なし
その他例祭 10月10日
オススメ度

 熱田区沢上はかつて熱田神領だった。北の古渡村との境界がどのあたりだったのかはっきりとは把握できていないのだけど、おおむね金山駅あたりではないかと思う。
 沢上(さわかみ)の地名は、江戸時代中期の寛政年間(1798-1801年)に本沢の集落ができて、その上方に位置することからそう呼ばれるようになったとされる。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社について、「創建は文政元戌寅年(1818)という。沢上の氏神として崇敬あつく」と書いている。
 創建が江戸時代後期の1818年ということは、その頃に本沢の集落から独立する形で沢上集落ができたということかもしれない。
『愛知縣神社名鑑』は続けて書く。
「明治6年据置公許となる。昭和20年5月の空襲により社殿炎上、昭和24年、都市計画道路拡張のため止むなく、社殿を遷す。昭和34年9月、伊勢湾台風により破損、同年10月、再建。昭和50年造営する」
 明治になって無格社の据置公許となって存続が認められ、昭和20年の空襲で焼かれ、戦後の道路拡張に伴って現在地に移され、伊勢湾台風で壊れ、昭和50年に再建造営されたということだ。
 大津通が拡張されるまではもう少し西にあったということだろう。
 今昔マップを明治以降辿ってみても鳥居マークは描かれず、旧地が最初の遷座地だったかどうかは不明だ。



 石柱には「祭神 伊勢大廟熱田神宮津島神社」と彫られている。
 伊勢大廟(いせたいびょう)は伊勢の神宮(web)のことで、熱田神宮web)と津島神社(web)からも勧請して三柱を同時に祀ったのではないかと思う。江戸時代の津島神社は牛頭天王を祀っていたから津島の祭神は牛頭天王だったろう。



 平安時代の末、沢上のこのあたりに源行家(みなもとのゆきいえ)が築いた熱田村砦があったという話がある。
 墨俣川の戦い(美濃国と尾張国の境界、今の長良川)で敗れた行家は、熱田まで逃げ落ちて、平家軍を迎え撃つべく大急ぎで砦を築いた。
 熱田村砦があった場所ははっきりしておらず、沢上の他に、尾頭町、旗屋町、誓願寺付近という説がある。
 個人的には沢上付近ではないかと考えている。というのも、旗屋町や誓願寺附近(誓願寺の建立は1529年)では熱田社に近すぎるし、尾頭町は街道に近すぎる気がするからだ。
 熱田社のすぐ隣に砦なんか作って戦闘になったら熱田社に被害が出てしまいかねないからそれは避けるのではないか。
 平安時代末ならすでに鎌倉街道の前身の道があったはずで、京と鎌倉を結ぶ道として使われていたに違いない。この街道から少し入ったあたりに砦を築くというのは理にかなっている。
 ここは熱田台地の中央やや南寄りで、古代は西も東も海だった。1180年頃というと、平安海進で海水面が今よりも50センチほど高かったと考えられているから、台地の下は低湿地帯だっただろう。
 京から鎌倉方面へ向かう際は必然的にこの道を通ることになる。



 源行家は、源為義の十男で、義朝の弟なので、頼朝・義経にとっては叔父に当たる。
 平治の乱(1160年)で兄の義朝とともに戦うも敗れ、熊野に逃げ込んで20年隠れていた。熊野新宮にいたことから新宮十郎を名乗る。
 義朝は尾張国野間(知多郡美浜町)まで逃げ延びるも、家臣の長田親子に殺害されてしまう。
 1180年、安徳天皇即位に異を唱えた以仁王(もちひとおう)が平家追討と安徳天皇の廃位を求めて各地の源氏などに令旨(りょうじ)を発したことに呼応して行家も立ち上がり、山伏の格好をして各地に散らばる源氏に令旨を伝えた。
 しかし、以仁王は平家軍に攻められ殺されてしまう。行家の行動によって以仁王の挙兵が発覚してしまったともいわれる。
 その後、行家は三河、尾張に本拠を移し、1181年の墨俣川の戦いとなった。
 これは単独での無謀な戦いだったため、平重衡らに散々敗れ、熱田村砦もあっけなく突破され、矢作川まで引くも、ここでも敗れ、遠く相模国松田まで逃げていったん落ち着くことになる。
 このとき頼朝に所領を求めて断られて対立。源義仲(木曾義仲)の元に走った。
 義仲とともに京に向かって進軍し、平氏を破って入京に成功するも、後白河院の前で義仲とどっちが前に出るか序列でモメて、義仲とも敵対することになる。
 身の危険を感じた行家は京都を脱出。播磨で平知盛・重衡軍に敗れて逃走(室山の戦い)、河内国では義仲が派遣した樋口兼光に負け、紀伊国名草に逃げ込んだ。
 1185年、頼朝が行家討伐を画策していることを知ると、今度は義経に近づき、頼朝軍から逃げて和泉国に潜伏しているところを見つかって捕らえられ、ついには息子ともども斬首となった。
 熱田村砦の遺構は何も残っていない。



 そういうわけで、沢上の神明社については今ひとつよく分からないというのが正直なところだ。
 熱田神領にもかかわらず熱田社ではなく神明社だったのは何故だろう。
 1818年に創建されたときの状況や創建者がさっぱり見えないのはどうしてなのか。
 全然関係ないけど、神社の隣はお茶屋さんの妙香園の工場で(筋向かいが本社)、境内でくつろいでいた猫が私を見て逃げていった。




作成日 2017.8.10(最終更新日 2019.9.3)


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

沢上の神明社

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