八劔社(八剱町)

八劔明神と熱田大神は同神なのか?

八剱町八劔社

読み方 はっけん-しゃ(はちけん-ちょう)
所在地 名古屋市中川区八劔町4-69 地図
創建年 不明
社格等 村社・十等級
祭神

熱田皇大神(あつたのすめおおかみ)

 アクセス

・地下鉄名港線「六番町駅」から徒歩約18分
・駐車場 なし

webサイト  
オススメ度

 中川区の南から港区にかけては、江戸時代に干拓などで埋め立てられてできた新しい土地だ。なので、そこにある神社は基本的にすべて江戸時代以降のものとなる(他から移してきた一部の例外を除いて)。
 1646年から1649年にかけて、尾張藩主導で大規模な干拓事業が行われた。後に熱田新田と名付けられた新田開発は、初代藩主の義直が 成瀬正虎を責任者に任命して行わせたもので、熱田宿の西から庄内川までの4キロの海岸線を埋め立て、4,000ヘクタールの土地をあらたに作って田んぼにしたのだった。
 当時は御新田(ごしんでん)といわれた土地を33の番割に分割して、それぞれ一番割、二番割のように呼んでいた。現在も残る熱田一番や六番町などはその頃の名残だ。
 西国三十三所になぞらえ、それぞれの番割に観音堂を置き、各所に神社も建てた。
 八剱町の八劔社もそういった神社のひとつだ。
 番割でいうと十番割あたりだと思うのだけど、ちょっとはっきりしない。
 八剱町(はちけんちょう)というのは、この神社にちなんだ地名には違いない。ただ、八剱町の地名がいつ誕生して、その前はなんという町名、村名だったのかはちょっと調べがつかなかった。
 町名としては「はちけん」でも、神社名としては「はっけん」だと思うのだけどどうなんだろう。剱の文字も剱、劔、剣が混在していてどれが正式なのか分からない。

『愛知縣神社名鑑』にはこうある。
「当所の新田開発に際し村人の安全と繁栄を願い、熱田の大宮を勧請創始したと伝う」
 熱田神社の本社から熱田大神を勧請したのに、どうして八劔社と名付けたのだろう? 熱田神社本社から勧請したなら熱田社を名乗らないだろうか。
 八剣宮は江戸時代まで熱田社の外にあって独立していた。人々は八劔明神などと呼んでいたというけど、すでに熱田社本社と同じ祭神を祀っていたのだろうか。
 そうだとして、何故八剣宮から勧請したとせずに熱田の大宮から勧請したとしているのだろう。
 江戸時代において、八剣宮の八劔明神と熱田本社の熱田大神は同じ神だったのか?
 八剣宮の成り立ち自体よく分からないし、江戸時代の人たちが八剣宮をどういう神社と思っていたのかも分からない。
 熱田神宮にまつわる謎は多く、八剣宮と熱田神宮本社との関係性もそのうちのひとつだ。
 すぐ南にある十一番の八劔社は、ヤマトタケル(日本武命)を祀るとしている。

『尾張志』、『寛文村々覚書』、『尾張徇行記』のいずれもこれに該当する神社を見つけることができなかった。
『尾張志』の中で八劔社があるのは、中野外新田、熱田新田一番割、土古山新田、神宮寺新田、寶来新田、中島新田あたりだ。
 もしかすると、中野外新田の八劔社がここのことなのか。
 新田の守り神としては神明社と八劔社が人気を二分していたようで、熱田社もあるけど少ない。
 熱田社よりも八劔社を建てたがった江戸時代の人たちの意識とはどういうものだったのか。剣を祀る神社という認識ではなかったと思うのだけどどうだろう。あるいは、剣は戦いの象徴というだけでなく、あらやる災厄から身を守る象徴でもあっただろうか。

 マピオンの地図には八剱公園の中に秋葉神社の表記があるだけで八劔社は出ていない。なので、ここにあるのは秋葉神社だと思っていた。
 なかば独立した格好になっている秋葉社がいつここに移されたのかは分からない。
 八剱公園の全域がかつての八劔社の境内ということになるだろうか。江戸時代はもっと広かったのだろう。
 社殿のスタイルは、名古屋南西部の神社のスタンダードなものだ。地域性がよく出ている。
 境内には神松樹と刻まれた石碑が建っている。海に近かった頃は境内に松の木が植えられて防風林の役割を果たしていたのだろう。
 神社の境内の南に、どこまでも続く田んぼの風景と遠浅の伊勢湾が広がっていた光景を想像するのは難しい。

ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)

ここも公園と一体化している八剱町八劔社

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