中川区の南から港区にかけては、江戸時代に干拓などで作られた新しい土地だ。なので、そこにある神社は基本的にすべて江戸時代以降のものとなる(他から移してきた一部の例外を除いて)。 1646年から1649年にかけて、尾張藩主導で大規模な干拓事業が行われた。後に熱田新田と名付けられた新田開発は、初代藩主の義直が 成瀬正虎を責任者に任命して行わせたもので、熱田宿の西から庄内川までの4キロの海岸線を埋め立て、4,000ヘクタールの土地をあらたに作って田んぼにしたのだった。熱田白鳥の西、庄内川までの国道1号線と59号線(東海通)の間の範囲がそれに当たる。 熱田新田は当時、御新田(ごしんでん)と呼ばれ、33の番割に分割して、それぞれ一番割、二番割のように呼んでいた。現在も残る熱田一番や六番町などはその頃の名残だ。 今昔マップ(1888-1898年)で百曲街道が確認できる。ここより南が江戸時代以前の海岸線で、百曲街道はその堤防が道になったものだ。 八剱町の八劔社は百曲街道から少し北に入ったところにあった。ここは中野外新田の村域だったと思う。 中野外新田は1634年(寛永11年)に開発された土地で、熱田新田よりも古い。 この新田を開発したのは、尾張における新田開発の第一人者である鬼頭吉兵衛景義というのだけど、『尾張徇行記』(1822年)は鬼頭弥五郎の五代前の先祖で、中島新田の十郎兵衛家から分かれて八尾村に移ったあと、ここに戻ってきて土着したと書いているので、鬼頭家にしても鬼頭景義ではなかったかもしれない。 中野外新田は中川を挟んで東西にまたがっており、西は西屋敷、東は中島屋敷と五軒屋敷と3つに分かれていた。
八劔社について『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「当所の新田開発に際し村人の安全と繁栄を願い、熱田の大宮を勧請創祀したと伝う」 神社創建が新田開発後ということであれば、1634年以降ということになる。 しかし、熱田の本社から勧請して熱田大神を祀ったのに、どうして社名を八劔社にしたのだろう。八劔社はずっと熱田社の別宮で、江戸時代は社地も独立していた。祭神は八劔大明神などといっていた。熱田の八劔社が八剣宮と名前を変えて熱田神宮と同じ神を祀るとしたのは明治以降のことだ。 『寛文村々覚書』(1670年頃)の中野外新田の項には「社弐ヶ所 神明 明神 社内年貢地 村中支配」とある。 この明神が八劔社に当たるはずだ。 神明は神明社(中野新町)のことだろう。 『尾張志』(1844年)では「神明ノ社 八劔ノ社」となっているので、江戸時代のどこかで明神は八劔社になっていたことが分かる。 江戸時代の人たちが熱田大神=八剱大明神と認識していたかどうかは分からない。
八剱町(はちけんちょう)の町名は、この八劔社にちなんだ町名だ。町名が「はちけん」なら神社名も「はちけん-しゃ」かもしれないけど、「はっけん」と呼ぶ方が多いのでとりあえずそうしておく。「やつるぎ」と読ませるところもある。 剱の文字も剱、劔、剣が混在していて、どれが正解か分からない。
マピオンの地図には八剱公園の中に秋葉神社の表記があるだけで八劔社は表記されない。 なかば独立した格好になっている秋葉社がいつここに移されたのかは調べがつかなかった。 八剱公園の全域がかつての八劔社の境内ということになるだろうか。江戸時代は田んぼの中で鎮守の森に囲まれていたのではないかと思う。 社殿のスタイルは、名古屋南西部の神社のスタンダードなものだ。地域性がよく表れている。 境内には神松樹と刻まれた石碑が建っている。海に近かった頃は境内に松の木が植えられて防風林の役割を果たしていたかもしれない。 神社の北には見渡す限りの水田、南はどこまでも続く遠浅の伊勢湾が広がる光景が江戸時代前期までは確かにここにあった。今それを想像するのは難しい。
作成日 2017.7.9(最終更新日 2019.6.10)
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