熱田神宮(web)の別宮として他の摂社とは別格の扱いを受けている八剣宮。祭神や祭祀に関しては本宮と同等としている。 この神社の創建のいきさつや実態を理解することは難しい。分からないことは分からないままでいいのだけど、何か得体の知れない謎感というか納得できない感覚がつきまとう。 八剣宮とは何なのか? その問いに明確に答えるのは不可能なのかもしれない。
公式見解では「元明天皇の和銅元年(708)、宝剣を新たに鋳造し創祀されました。一の鳥居(南門)の西側に鎮座し、本宮と同じ祭神をお祀りします。社殿も本宮と同じ造りで年中祭儀も同様に行われます」ということになっている。 「西夷降伏の祈願のため、宝剣を新たに鋳造し創祀された」ともいう。 西夷とは何を指すのか? 708年当時、西にはどんな敵がいて、それは誰にとっての敵だったのか? ”鋳造”といっているけど、それは断定していいことなのか? ”鍛造”ではないと言い切れる根拠はどこにあるのか?
『日本書紀』や熱田社縁起などによると、668年に沙門(修行者)の道行が草薙剣を盗み出して新羅に向かって逃げようとしたら暴風雨に阻まれて行くことができず、688年に天武天皇が病気になったので占ったところ、草薙剣の祟りだということになり熱田社に送ったという。 その少し前からの歴史的な流れを整理すると、645年に乙巳の変(大化の改新)が起きた。横暴を極める蘇我一族に対して中大兄皇子と中臣鎌足たちが蘇我入鹿を討って蘇我家を滅ぼしたとされる政変だ。 近年、蘇我氏への評価は変わってきており、蘇我家が推し進めていた改革を中大兄皇子らが横取りして政権を奪取したという説も出ている。 663年に倭国は百済と組んで新羅・唐連合軍と戦って大敗している。白村江の戦いがそれだ。結果、百済は滅亡して、大量の難民が倭国に渡ってきたと考えられる。 盗難事件が起きたという668年は中大兄皇子が天智天皇として即位した年だ。 645年の乙巳の変から668年まで中大兄皇子が天皇として即位しなかった理由については諸説あってはっきりしない。 672年、天智天皇の皇子・大友皇子と天智天皇の弟とされる大海人皇子の間で戦が起きる。壬申の乱だ。 戦に勝利した大海人皇子は翌673年に飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位した(天武天皇)。 686年、天武天皇は病になり、その原因が草薙剣の祟りとされたため、草薙剣を熱田社に送った。この年、天武天皇は崩御している。 この後に即位したのが天武天皇の皇后だった持統天皇(鸕野讚良/うののさらら)で、孫の元正天皇に譲位し、元正天皇が若くして亡くなったため、元明天皇(天智天皇の娘で持統天皇とは腹違いの姉妹)が即位することになる。
何故、尾張国の熱田で祀られていた草薙剣を沙門が盗んだのか。あるいは、何故そういう話になったのかというのは大きな謎だ。 『日本書紀』は新羅に向かって逃げたと書いているものの新羅の沙門とはいっていない。だから、道行を新羅人と決めつけることはできない。 それと、盗んだ場所も明記していない。送ったのは熱田社としながら熱田社から盗んだとは書いていない点も引っかかる。 この時点で草薙剣はまだ天皇即位に必要な三種の神器のひとつではなかったかもしれない。 更に、天武天皇が病気になったとき、どうして草薙剣は天武天皇を祟ったのか。文脈からすると、道行から取り戻した草薙剣は熱田社に返されることなく宮中にあったということになる。単純に考えれば、天武天皇は正当な所有者ではなかったからということになるのだろう。 引っかかるのは「戻した」とか「返した」とかではなく「送り置いた」と書かれている点だ。この表現では剣は往復したのではなく宮中から熱田社への片道だったように取れる。 このときの熱田社は非常に慌てて、本社では受け入れ態勢が整っていないということで、熱田の社人の田島氏(尾張氏の一族)の邸宅に影向間を作ってそこでしばらく安置することになった。 それが後に影向間社となるのだけど、そのあたりのことについては影向間社のページに書いた。 草薙剣が送られてきた686年当時、熱田社は大がかりな造営工事をしていた。草薙剣もないのにそんな浮かれて造営している場合ではないように思うのだけど、その工事は12月に完成している。 送られてきたのは6月10日で、大造営が半年やそこらでできるはずもないので、造営工事は数年前から始まっていたということだ。そのあたりにも何か秘められた事情がありそうだ。 それと、686年に草薙剣は戻ってきたのに、どうして708年に新剣を作って熱田社ではなく別社を建ててそこで祀る必要があったのかという謎もある。 このときの天皇は元明天皇だ。ただ、実質的に政治を行っていたのは藤原不比等(中臣鎌足の次男)だったとされるので、不比等の意向が反映したものだったかもしれない。 これに関連する話が南区鳥栖の八劔社に伝わっている。 その由緒によると、道行が熱田社がから草薙剣を盗み出したのは708年で、そのことを元明天皇に知られることを恐れた熱田社の人間が、鳥栖の地にいた鍛冶屋に草薙剣の代わりを作らせて熱田の八劔社におさめたという。 一般的にはあまり知られていない話で信憑性はどうかとも思うのだけど、何もないところにこんな作り話が生まれるとも思えず、何らかの重要な剣が鳥栖で作られた可能性はある。 鳥栖の八劔社は古墳(鳥栖八剣社古墳)の上にあり、新造した剣を仮安置した場所に鳥栖の八劔社が建てられたというのが鳥栖八劔社の由緒だ。 まったくのでたらめではないと思うのは、新剣が作られたとき、多治比真人池守と安部朝臣宿奈麻呂が37日間の修祓(しゅばつ=清めの儀式)を行ったのち、9月9日に八剱社に納めたという話が伝わっていることだ。 9月9日は天武天皇が崩御した日だ。これは偶然だろうか。 708年は、奈良の平城京への遷都の詔が出された年(2月)で、9月30日に多治比池守と阿倍宿奈麻呂は造平城京司長官に任ぜられて平城宮の造営に当たっている。 多治比氏は宣化天皇(せんかてんのう)の三世孫・多治比古王を祖とする有力氏族で、朝廷で最高位の役職を務めるなどしていた。宣化天皇は継体天皇の皇子で、母親は尾張氏の首長だった尾張草香(おわりのくさか)の娘・目子媛(めのこひめ)だ。熱田にある断夫山古墳は、この尾張草香もしくは目子媛の墓という説がある。 もし、新剣作りや八劔社創建にこのふたりが関わっていたとすれば、奈良の平城京への遷都と無関係だったとは思えない。鳥栖八劔社は元明天皇に知られるのを恐れてといっているけど、ふたりが派遣されたのなら新剣作りと八劔社創建はどちらも元明天皇の命ということになるのではないか。 ここで再び、西夷とはどこを指すのかということが問題となる。それは九州あたりの勢力なのか、朝鮮半島の新羅なのか。 新羅の沙門が草薙剣を盗んだという話が事実ではないとしても、やはり新羅が関わっていた可能性は考えられる。 720年に南九州で隼人の乱が起きているけど、それが関係しているとはちょっと思えない。
元明天皇とはどんな天皇だったのか。 天智天皇の第4皇女で、名を阿閇(あべ)といった。母親は蘇我姪娘 (そがのめいいらつめ)なので蘇我家の血が入っている。 天武天皇の皇太子・草壁王の妃となり、氷高皇女(後の元正天皇)と軽皇子(後の文武天皇) を産んだ。 15歳の時に祖母である持統天皇から譲位された文武天皇は、25歳で死去。草壁皇子を持統天皇が天皇にしなかったため、文武の息子の首皇子(後の聖武天皇)が大きくなるまで中継ぎとして阿閇が元明天皇として即位することになった。 それが707年のことで、皇后を経ない初の女帝だった。 715年に娘の氷高皇女(後の元正天皇)に譲位するまでの8年間が在位期間となる。 新剣が作られて八劔社が創建された708年は和銅元年になる。この年、武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市黒谷)で和銅(ニギアカガネ)が発見されて朝廷に献上された。これを受けて年号が慶雲から和銅にあらためられた。 和銅が朝廷に謙譲されたのが正月11日。元明天皇は日本初の流通通過とされる和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)を鋳造した。それが8月10日だ。 草薙剣は鉄剣か銅剣かという議論があるけど、八劔社の新剣はどうだったのか。熱田社の見解では「鋳造」といっているから鍛造ではなかったということか(鋳造は溶かした金属を型に流し込んで形成し、鍛造は叩いて鍛える製法)。 和銅の発見と関係があるのかないのか。 天武天皇の勅命から始まったとされる『古事記』が完成したのが元明天皇の時代だ(712年)。 元明天皇は各地に風土記の編纂も命じている。中継ぎ天皇と思われがちだけどけっこういろいろやった天皇だったのだ。
八劔社の”八”は何を意味するのか。 もともとの読み方は「やつるき」なので、いよいよ、ますますといった意味の彌(弥)から来ているのではないかという説がある一方、文字通り八本の剣から来ているという考えもある。 八という数字は神道では特別な数字とされ、神話にも八はしばしば登場する。 そもそも草薙剣は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を倒したときに尾から出てきた剣だし(天叢雲剣ともいった)、日本で最初の和歌とされるスサノオの「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」などは八という数字が重ねられ、八雲は出雲の枕詞になっている。日本の神は八百万で、八幡神などという外来の神もいる。 天野信景は『本国神名帳集説』の中で祭神を素戔嗚尊の和魂と書いているのは、八からの連想だろうか。 『尾張名所図会』(1844年)はこう書く。 「祭神十座。神秘にして其何れの神たる事をしらず、故に謹んで私意を加えず」 10柱の神を祀っているらしいけど秘密なので私見は述べないということだ。 祭神はともかく、八本の新剣を作って納めた可能性はある。七本の新剣を作って、草薙剣とあわせて八剣としたという説もある。 守山区龍泉寺(web)の縁起に、空海が熱田社に参篭したとき、熱田にあった八剣のうちの三剣を龍泉寺に埋納したという話が伝わっている。いくら空海といえども草薙剣を持ち出せるわけがないので、この八剣というのは八劔社にあったものではないのか。 ただ、龍泉寺は最澄が開いたともされる天台宗の寺なので、真言宗の空海が龍泉寺に剣を納めるかというと疑問ではある。 空海が生きたのは奈良時代末から平安時代前期の774年から835年にかけてだ。八劔社の創建が708年だとすると、それほど年月は経っていない。 927年に完成した『延喜式』神名帳の中で八劔社は愛智郡八劔神社となっており、小社に過ぎなかった。 熱田神社だけでなく、現在摂社となっている日割御子神社、孫若御子神社、高座結御子神社は名神大社だったので、それらと比べて明らかに格下だったということだ。 それが平安時代末には正一位にまで上り詰めている。100年足らずの間に何があったのか。 平安時代末には熱田社本社と同等の扱いになっていたと考えられている。 1114年、それまで熱田社の大宮司をつとめていた尾張氏は突如、藤原南家の季範に大宮司職を譲ってしまう。譲らされたというべきなのだろうけど、そこで何があったのか。 鎌倉時代以降、熱田の藤原氏は千秋家を名乗り、武家化していくことになる。
八劔社の社家はいつの時代からかは定かではないのだけど、大喜氏が務めていた。 これは守部氏の一族で振魂命(フルタマ)の後裔とされる。 フルタマの父は和多罪豊玉彦命(ワタツミトヨタマヒコ)と『新撰姓氏録』は書いているから、海人族ともつながりそうだ。 つながりといえば、守部氏はもともと鍛氏といっており、これは鍛冶部(かぬちべ)から来ている。 剣を造る一族が新剣造りを請け負って、そのまま八劔社の社家になったという流れは考えられる。
八劔社は戦国時代には武家の崇敬を受けているから、戦の神という認識が強かったようだ。信長や家康、綱吉なども社殿の造営を行っている。 『尾張名所図会』に描かれた絵を見ると、江戸時代までは境内もかなり広かったようだ。熱田社同様、尾張造の社殿で、八子御前社、徹御前社、住吉社、春日社、八幡社、霧社などの境内社もあった。 尾張国各地にも勧請されて祀られるようになる。古いものでは、守山区大森の八劔神社は奈良時代末の793年創建とされている。 新田開発をした村の鎮守として祀られることもあったことから、江戸時代には戦の神というだけでなく広い意味での守り神と考えられていたのだろう。 不思議なことに、現在の名古屋市内では熱田社本社から勧請された神社よりも八劔社から勧請された神社の方が多い。熱田社よりも八劔社の方が人気があった理由があるはずで、そのあたりもよく分からない点のひとつだ。
熱田神社は1868年(江戸時代最後の年で明治元年)に神宮を名乗ることを許された。天皇即位に欠かせない三種の神器のひとつを持っているのだから伊勢の神宮(web)と同等くらいであってもいいはずだという熱田社側の働きかけによるものだった。 当初は”尾張神宮”を名乗ることを希望していたのだけど伊勢の神宮の猛反発で実現しなかった。 八劔社も明治13年(1880年)に別宮・八剣宮とあらためている。 明治26年(1893年)、それまでの尾張造から神明造に建て替えられた。 八剣宮の位置もこのとき少し東の旧地から現在地に移されている。
八剣宮の正体を暴くなどとだいそれたことを考えているわけではないのだけど、八剣宮に関してはどうにもはっきりしないもやもや感が私の中にずっとあって何とかしたいという思いがある。分からないなら分からないでいっそのこと何も分からない方がかえってすっきりする。熱田神宮本社についてはそういう気持ちの方が強い。 天武天皇と尾張氏の関係はどうだったのかとか、何故『古事記』、『日本書紀』は尾張氏の活躍や貢献を書かなかったのかとか、持統上皇の伊勢御幸(三河御幸)は何の目的があったのかとか、熱田社と寺院との関わりはどうだったのかとか、隠された神のこととか、まだまだ考え合わせるべきことはたくさんある。人間の行動原理がひとつではないように、神社の成り立ちも多くの要素が絡み合っていて一筋縄ではいかない。
作成日 2018.6.4(最終更新日 2021.3.11)
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