なんだか不思議な違和感のある神社だ。 まず入り口に鳥居がない。鳥居は参道を進んだ拝殿前にある。それはいい。 その次に思ったのが社号標の位置が変だということだ。通常、入り口近くの右か左にあるものが、妙に離れた右の端っこの方にある。何故ここだったんだろう。山車の出入りのためかとも思ったのだけど境内に山車蔵などはない。 更におかしいのは、参道を進んだ正面に拝殿がないということだ。鳥居をくぐった先の参道がクランク上に折れていて、少し右にずれている。 しかも、拝殿の正面に本殿がなく、本殿もまた拝殿の右にずれているのだ。 土地が狭すぎて仕方なくそういう配置になったのなら分かるのだけど、右手の方に土地は余っている。普通に設計すれば正面から直線上に鳥居、拝殿、本殿と並べることは充分に可能だ。むしろあえてそうしていないのかとさえ思わせる。神社側の独特の思想があるのだろうか。 それから、訪れたのは7月の下旬の暑いときだったのに、境内の下草が茶色く枯れて冬枯れみたいな光景になっていた。 一体この神社は何なんだと思わせたのだった。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。『尾張志』に”神明ノ社供米田村にあり”と供米田村の氏神として鎮座崇敬あつく、明治5年7月、村社に列格する。明治14年10月社殿を改築した」 社殿は白いコンクリート造だから明治14年ということはない。戦後には違いなく、まだ新しさが残っているから平成に入ってからの建て替えだろう。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にはこうある。 「神明 社内 年貢地 助光村 忠太夫持分」 供米田村にはこの神明社のみがあって、年貢地だったようだ。 隣の包里村の神明2社と状況が似通っている。
『尾張徇行記』(1822年)はやや詳しくこうある。 「神明社 界内年貢地、助光村藤太夫持分 助光村祠官二村式部書上帳ニ、神明社内五畝年貢地 此社勧請ノ初ハ知レズ、再建慶長六丑年也」 慶長6年は1601年で、その年に再建ということは江戸時代以前に創建されたということだ。にもかかわらず除地ではなく年貢地になっているのはどうしてだろう。
供米田村(くまいでんむら)について津田正生は『尾張国地名考』の中で、「村名始めより字音にして後世の俗語也 【或人曰】熱田大神の供米田所なるべし」と書いている。 熱田社(熱田神宮/web)に提供する米を作っていたことから村名になったという人がいるとしつつ、明確なことは分からなかったのか。 年貢地となっているのは熱田に年貢を納めていたせいかもしれない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北の戸田村と半ば一体化していたことが分かる。 鳥居マークが現在地に描かれているので場所は動いていないようだ。ここはかつての供米田村の東端に当たる。 そこから東の方に道が延びていて田んぼの真ん中で行き止まりになっている。マップの時代を進めていっても特に意味はないようだけど少し気になった。 供米田が区画整理されて住宅地になるのは1960年代以降のことだ。 その後住宅が増え、田んぼは姿を消した。 供米田1丁目から3丁目ができたのは平成2年(1990年)のことで、旧住所は富田町大字供米田だった。
いろいろな神社があって、神社のあり方に絶対的な正解はなく、それぞれの個性でいいのだけど、たまに変な設計の神社があって、ん? と思うことがある。ここもそういった神社のひとつとして記憶に残った。何の印象を残さないより違和感でもあった方がいいという言い方もできるかもしれない。
作成日 2017.12.3(最終更新日 2019.7.11)
|