かつての堀越村の神明社なのは間違いないのだけど、少し分からないところがある。 『愛知縣神社名鑑』はこう書く。 「創建は明かではない。明治14年5月2日、比良村桧島よりこの地に遷座する。下堀越町の産土神として崇敬する」 一方、境内にある由緒書きの内容はこうだ。 創建は永享2年(1430年)。 堀越村はもともと上小田井村の隣にあった。慶長14年(1609年)に庄内川左岸に堤防が築かれ、慶長19年(1614年)に右岸が築堤されるとき、名塚村、新福寺村とともに現在地に移った。 このとき、神明社は上の切検丁(今の宝琳寺の東)に遷宮した。 元治元年(1864)、境内社として水神社と浅間社が祀られた。 明治14年(1881)現在地に遷宮。 棟札を11枚所蔵している。
比良村の桧島がどこなのかは分からないのだけど、比良村というと現在の比良で、西区の北の端だ。 上小田井村はそこより南で、庄内川の右岸にあった。 江戸時代の矢田川の流路は今と違っていて、もっと南を流れていた。二本の川に挟まれた狭いところに堀越村、名塚村、新福寺村があった。 しかし、たびたび川が氾濫して村が被害にあったため、庄内川に堤防が築かれることになった。それが1609年と1614年のことで、3つの村は庄内川の左岸に移るようと命じられて、家や寺社が丸ごと引っ越したという歴史がある。 これは名古屋城築城とも関係のある話で、3つの村を守るというよりも名古屋城の城下を守るための治水工事だった。 堀越村にあった寶琳寺(地図)も同じように移され、神明社は最初その寶琳寺の東に移され、明治14年に現在地に移ったという流れだったのだろう。 『愛知縣神社名鑑』の明治14年に比良村桧島から移されたというのはどういう根拠で書いたのだろう。 神社が棟札を11枚所蔵しているということは、神社側の言うことの方が信憑性が高い。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の堀越村の項はこうなっている。 「社弐ヶ所 内 神明 白山 社内三畝七歩 前々除」 『尾張志』(1844年)を見ると状況が変わっている。 「下堀越村 白山社 上堀越村 白山社 神明社」 どこかの時点で堀越村は上堀越村と下堀越村のふたつに分かれたようだ。神明社はこの当時、堀越村の北に寶琳寺と一緒にあったということなので、上堀越村の神明社ということになる。 白山社(地図)は今も上堀越にあり、下堀越にはない。下堀越の白山社はどこかに合祀されたということか。 『尾張徇行記』(1822年)を見ると、「神明社白山社界内三畝七歩前々除」、「宝林寺書上ニ、白山神明春日相殿天王社界内二畝廿四歩年貢地」とある。 白山社、神明社とは別に、白山・神明・春日の相殿と天王社もあったということだろうか。ちょっとよく分からない。 ちなみに、『寛文村々覚書』、『尾張志』、『尾張徇行記』とも、比良村に神明社はない。やはり、神社側がいうことの方が正しそうだ。 1430年創建を示す棟札を持っているとするなら、創建は室町中期となり、なかなか古いということになる。その場合、最初から本当にアマテラスを祀る神明社だったのかという疑問が出てくるけど、そこはもう知りようがない。
現在の境内社に水神社はあるものの、浅間社はない。代わりに津島社と秋葉社がある。長い歳月の中で本社だけでなく境内社も移り変わった。 大きく育った楠の枝葉が境内の上空を覆い、初夏の日差しを遮っていた。夏でも境内は少しひんやりしているんじゃないだろうか。
作成日 2018.5.6(最終更新日 2019.1.27)
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